3.横須賀市の史跡

 

1.横須賀市の姉妹都市・友好都市 2.横須賀市のあゆみ 3.横須賀市の史跡 4.横須賀マップ一覧 5.地域ごとの特色

 

 

 

 夏島貝塚  ナウマン象の発見
 按針塚  平坂貝塚の人骨
 赤門  衣笠城址
 法塔  浄楽寺
 上ノ台遺跡  大塚古墳
 廻船問屋の家なみ  燈明堂
 ペリー上陸記念碑  横穴

 

市内には、むかしの人びとの生活のようすをつたえるものがたくさんあります。あなたの家の近くには、どんなものがありますか。

 

 

夏島貝塚(なつしまかいづか)

 日本でもっとも古い貝塚のひとつで、縄文(じょうもん)時代のはじめごろ(今から9000年ぐらい前)のものといわれています。貝塚とは、そのころの人びとの生活によってできたゴミ捨て場です。

 

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 按針塚 (あんじんづか)

 1600年、日本に流れついたウィリアム・アダムスは、徳川家康(とくがわいえやす)に外国のことや船の動かし方などを教え、ほうびとして逸見(へみ)に土地をもらいました。日本名は、三浦按針(みうらあんじん)といい、この石ひは、按針ふさいのくようとうです。なお、按針とは、水先案内人(みずさきあんないにん)のことです。

 

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 赤門 (あかもん)

 両わきにあるへやのやねと門のやねが一つづきになったたて物を、ながや門といいます。この門は、江戸(えど)時代のもので、赤くぬられていたので、赤門とよばれました。

 

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 法塔 (ほうとう)

 この石ひは、1781年、日蓮(にちれん)の500年遠忌(おんき)にたてられました。台ざには、「東浦賀(うらが)、南三崎(みさき)、西鎌倉(かまくら)、北横須賀」ときざまれてあり、道路ひょうしきのやくめもしていたことがわかります。

 

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 上ノ台遺跡 (うえのだいいせき)

 

 1977年からの発くつ調査(ちょうさ)では、141けんの住居(じゅうきょ)のあとが発見され、弥生(やよい)時代の中ごろ(今から2000年ぐらい前)から古墳(こふん)時代のおわりごろ(今から1400年ぐらい前)にかけて営(いとな)まれたむらのあとであることがわかりました。住居(じゅうきょ)のあとからは、炭化(たんか)した米や生活道具(どうぐ)が発見され、当時(とうじ)の人びとが半農半漁(はんのうはんぎょ)の生活をしていたこともわかりました。今、この場所には中学校がたてられ、遺跡はありません。
 また、小矢部(こやべ)の蛭畑(ひるばたけ)遺跡からは、弥生(やよい)時代の人びとのおはかも発見されています。

 

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 廻船問屋(かいせんどんや)の家なみ 

 270年ぐらい前から、浦賀奉行所(うらがぶぎょうしょ)のさしずで、港に入る船をけんさしたり、荷物(にもつ)の売り買いのせわをした商人の家々です。

 

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 ペリー上陸記念碑 (じょうりくきねんひ)

 1853年、黒船にのったペリーは、ばくふのゆるしをえて、久里浜海岸に上陸しました。

 

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 ナウマン象(ぞう)の発見 

 

 1867年、今のベースの中にあった横須賀製鉄所(せいてつじょ)がつくられる時、象の下あごのほねが発見されました。このほねの化石は、ドイツ人のナウマンという先生の研究(けんきゅう)によると、体の高さが3mほどもある大むかしの象のものであることがわかり、今の象と区別(くべつ)するために、先生の名前から“ナウマン象”と名づけられました。
 また、大津(おおつ)町5丁目の大津公園のがけからは、“オオツノジカ”のつのとかかとのほねが発見されています。

 

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 平坂貝塚(ひらさかかいづか)の人骨(じんこつ) 

 

 1947年、当時(とうじ)豊島(としま)小の5年生によって、貝塚が発見され、その後の発くつ調査(ちょうさ)では、一体の人骨が発見されました。この人骨は、30才ぐらいの男の人のもので、身長は163cmぐらい。歯(は)がとてもすりへっていて、歯を道具(どうぐ)がわりに使っていたのではないかと考えられています。また、レントゲン検査(けんさ)から、大人になるまで11回、ほねの成長(せいちょう)がとまるぐらいの重(おも)い病気や栄養失調(えいようしっちょう)になっていたこともわかり、いかに縄文(じょうもん)時代のはじめごろの人びとの生活がきびしかったのかを物語(ものがた)っています。

 

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 衣笠城址(きぬかさじょうし)

 1062年ごろから、この山全体を城として使っていました。1180年の三浦軍(みうらぐん)と畠山軍(はたけやまぐん)による衣笠合戦は有名です。

 

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 浄楽寺(じょうらくじ)

 本どうのうらのしゅうぞうこには、うんけいという人がつくったぶつぞうがあります。また、けいだいには、ゆうびんの父といわれる前島密(まえじまひそか)のおはかがあります。

 

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 大塚古墳(おおつかこふん)

 

 今から1500年ぐらい前になると、人びとの間に貧富(ひんぷ)の差(さ)が生まれ、 富(と)んだものは、古墳とよばれる大きなおはかをつくるようになります。大塚古墳も、 そのようなおはかの中のひとつで、1952年の調査(ちょうさ)では、三浦半島の中で一 番大きな古墳であることがわかりました。おはかのかたちは、前の部分がややまるみのあ る前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)です。

 

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 燈明堂(とうみょうどう)

 1648年、船の安全を守るためにつくられ、220年間使われました。今のものは、1989(平成元)年に、むかしの石がきを土台にして、もとのようにつくられたものです。

 

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 横穴(おうけつ)

 古墳時代(こふんじだい)のおわりごろ(今から1400年ぐらい前)から平安(へいあん)時代のはじめごろにかけて、がけによこあなをほって、死んだ人をほうむりました。

 

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更新日:2023年11月01日 11:40:15