カテゴリ:8.くらしを高めるねがい
8.くらしを高めるねがい

 

 1.内川新田(うちかわしんでん)の開発
 2.平作川の改修(かいしゅう)工事

 

上の絵は、1907(明治40)年ごろの久里浜(くりはま)(夫婦橋(めおとばし)付近)のようすをかいたものです。
 この夫婦橋のたもとには、古い石ひがたっています。この供養塔(くようとう)は、今からやく330年ぐらい前にたてられたもので、およそ、つぎのようなことがきざまれてあるといわれています。

「今まで入江※(いりえ)だったところを、8年もかけて、新しく田や畑につくりかえることができました。これも、ほとけ様のおかげです。ありがとうございます。

砂村新左衛門(すなむらしんざえもん)」

 

今の夫婦橋のようす

夫婦橋のたもとにある供養塔


 この供養塔にきざまれてある「砂村新左衛門という人は、どんな人なんだろう。」・「なぜ、8年もかけて、入江だった所を田や畑につくりかえたのだろう。」

―― これらのぎもんについて、くわしく調べてみましょう。

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※海が陸地(りくち)にはいりこんだ所。

 

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 1.内川新田(うちかわしんでん)の開発 

 


○ くらしをよくするために、むかしの人びとは、どんなねがいを持ち、どんな苦労をしながらそのねがいを実現(じつげん)させたのでしょうか。ここでは、内川新田を例に、郷土(きょうど)の開発について調べてみることにしましょう。
 

 

(1)新田(しんでん)ができる前の久里浜付近のようす

 江戸(えど)時代(※1)に書かれた本によると、今の久里浜付近一帯は、佐原川(さはらがわ)、大川(おおかわ)、吉井川(よしいがわ)が流れ込む、大きな入江で、その入江のおく(北久里浜寄(よ)り)には、葦(あし)などの草木がおいしげる、自然のままのぬま地がつづいていました。
 入江は、潮(しお)がひく時こくになると、遠く久里浜港(こう)の方まで砂浜(すなはま)が顔を出し、ところどころに、ぬま地や潮だまり(池のようなもの)ができ、潮があがってくると、浅い入江になって、今の久里浜港とつながってしまいました。
 この入江のまわりには、久比里(くびり)、吉井(よしい)、久村(くむら)、八幡(やはた)などの村があり、人びとは、農業(のうぎょう)も漁業(ぎょぎょう)も行って生活をしていました。
 今から330年以上も前のこの時代は、武士(ぶし)の世の中で、村の人びとは、たくさんの米を年ぐ(※2)として、大名(※3)(だいみょう)や将軍(※4)(しょうぐん)におさめていました。

 そこで、少しでも多くの米をつくり、ゆたかな生活をしようと、人びとは、内川入江(うちかわいりえ)のようなあれ地や浅い海、ぬま地などをうめたて、田や畑につくりかえていったのです。これを「新田(しんでん)」といいます。

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※1.徳川氏が、江戸(今の東京)で政治(せいじ)を行っていた時代で、1603年から1867年までをそうよびます。

※2.今のぜい金のことで、農家の人びとは、おもに米をおさめていました。

※3.将軍から、一万石(いちまんごく)以上のりょう地をあたえられていた武士のことです。

※4.日本全国の武士をけらいにしていた“武士のかしら”です。

 

(2)工事がはじまるまで


 砂村新左衛門(すなむらしんざえもん)は、吉田(よしだ)新田(※1)が完成すると三浦半島へ足を進めました。
 そして、大川(おおかわ)(平作川(ひらさくがわ))など、3つの川が流れこむ内川入江を見て、吉田新田で学んだことを生かして、田や畑につくりかえようと思いたったのです。
 新左衛門は、まず、将軍のゆるしをえて、近くの村の人びとに自分の考えを話しました。村の人びとはその話を聞いて、工事に協力することをやくそくしてくれました。
 こうして、1660(万治(まんじ)3)年(※2)、砂村新左衛門を中心に、久里浜(くりはま)付近の村の人びとによって、内川入江の工事がはじまったのです。

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※1.今の伊勢左木町(いせざきちょう)から横浜スタジアムのある横浜公園にかけての一帯にありました。この新田は、そこで商人をしていた“吉田勘兵衛(よしだかんべい)”を中心に開発されたので、そうよばれました。

※2. 1659(万治2)年という説もあるようですが、ここでは、横須賀市史(し)の年表の年をのせました。

 

(3)新田づくり

 砂村新左衛門は、まず、吉井(よしい)の山ぎわに小さな家を建て、そこを工事じむ所としました。江戸(えど)からうでのたつ職人(しょくにん)を何人もよび集め、近くの村からは多くの人びとがやって来ました。
 工事は、まず、海岸にそって、約872mにわたるていぼうをつくり、波が入江にはいらないようにしました。つぎに、大川など、3つの川の両側に土手(どて)をつくって、いくつにもみだれて流れていた川をそれぞれ1本にまとめました。そしてまわりの土地には水路をつくり、近くの山から運んできた土で、水田をつくっていきました。今のようにすすんだ機械(きかい)などなかった時代なので、すべて人や馬、牛の力で工事はすすめられました。

 

 また、今の夫婦橋(めおとばし)がある所には、長さ約126m、高さ約1.8mのていぼうをつくり、そのあいだに、長さ約10.8mの水門を2ヵ所つくりました。
 水門は、潮(しお)のみちひきによって、自然に掛戸(かけど)が開閉(かいへい)するしくみになっていましたが、台風や津波(つなみ)などで、大水が出たと時は、すぐにこわれてしまったり、ひどい時には、ていぼうごと流されてしまったりしたようです。この水門づくりには、いろいろな伝説が残っていることからも、いかに大変だったのかを知ることができます。
 また、せっかくつくった水田や川の土手(どて)なども、何度か流されてしまったことがありました。しかし、新左衛門(しんざえもん)や村の人びとは、こうしたひ害にも負けず、朝早くから夜おそくまで、工事をすすめていったのです。

 こうして、1667(寛文(かんぶん)7)年、8年という年月をかけて、やっとの思いで、新田をひらくことができたのです。内川新田からは、542石(こく)の量の米がとれるようになりました。工事をおえた村の人びとが、この新しい水田で、いっしょうけんめいに米をつくったのです。

 

砂村新左衛門について

 江戸(えど)時代に書かれた本によると、この人は、大阪(おおさか)方面の人で、若いころから各地をまわり、土木工事や農業などの勉強をしていたそうです。久里浜(くりはま)の正業寺(しょうごうじ)にお墓(はか)があります。

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※福井(ふくい)県の人だという説もあります。

↑正方形の台にみぞがあって、水がたたえてあります。

 

内川新田のバス停
 今は、家や工場などができて、そのおもかげを見ることはできませんが、「内川新田」と いう地名は、一部に残っています。

 

 

「夫婦橋の人柱(ひとばしら)」の伝説

 内川新田をつくるためにかけた橋も、川が大水になるたびに流されてしまいました。こんな事が何回もつづくと、村の人々の中には、「これは、神様がおいかりであるにちがいない。神のいかりをしずめるためには、人柱(ひとばしら)をたてなければ・・・。」という話が出はじめました。
 その話はだんだんと広まり、村でも、とくにまずしい家の、美しい娘(むすめ)に、その矢(や)がむけられたのです。「気の毒(どく)ではあるが、まずしい家のことだから、お金で何とかなるだろう……。と、村長たちが娘(むすめ)の家に出かけ、「神のためじゃ。村のためじゃ、ぜひ……。」と両親にお金を出してたのみました。
 両親はもちろん、娘(むすめ)もこの話を聞いて、たいそう悲しみましたが、まずしい家のこと、「神のため、村のためなら……。」と、しょうちしました。
「人柱(ひとばしら)に娘(むすめ)がたてば、きっと神様はいかりをしずめ、願いを聞いてくれるにちがいない。」と、よろこんだ村人たちは、さっそく用意をはじめました。
 まず、大きな箱(はこ)をつくり、その中に娘(むすめ)を入れると、箱(はこ)の中に食べ物と鈴(すず)を入れ、ふたをしめて橋げたの下に、その箱(はこ)をうめました。
 それからというもの、村人たちが橋のそばを気にしながら通ると、鈴(すず)の音(ね)が聞こえてきます。しかし、三日たち、四日たちしていくと、とぎれとぎれで、しだいに小さな音になり、しまいには、とうとう耳をすましても聞こえなくなってしまいました。
 村人たちは、鈴(すず)の音(ね)とともに、娘(むすめ)が天にむかえられたと涙(なみだ)ぐみました。
 それからと言うもの、橋の工事もどんどんすすみ、夫婦橋(めおとばし)は、どんなに大雨がふりつづいても、流されることはなくなったと言う事です。

(田辺悟著「三浦半島の伝説」より)

 

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 2.平作川の改修(かいしゅう)工事 

 


○ つぎに、わたしたちは、むかしの人びとの努力(どりょく)のあとが、今はどのようになっているのか、むかしの工事のようすとくらべながら、調べてみることにしましょう。
 

 

(1)たなばた水害とその原因(げんいん)

 1974(昭和(しょうわ)49)年7月7日の夜からふりはじめた雨(※1)は、9時間もふりつづき、土地の低い平作川(※2)へとたくさん集まってきました。川の出口の久里浜では、水が川からあふれ出し、町じゅうが水びたしになってしまいました。とくに、水害のひどかった所は、むかしから土地の低かった“内川新田”です。
 その原因(げんいん)としては、大水が出た時、水がたまる場所(田や大きな水たまり場など)があったのですが、最近では工場や家などがたくさん建てられ、そのほとんどがなくなってしまいました。また、今では、平作川のまわりの山々がけずられ、住宅(じゅうたく)や団地(だんち)がたくさんできたので、大雨がふると、水が全部川に流れてしまうからだともいわれています。

 

 
ひ害のようす
(舟倉(ふなぐら)町付近)

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※1.7月7日のたなばたの夜から雨がふったので、“たなばた水害”とよばれています。

※2.大楠山のふもとから流れ出し、久里浜港へとそそぐ、三浦半島の中で一番長い川です。

 

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(2)人びとのねがいと改修工事

1.県や国のしごと

 久里浜の人々はこの水害が起きたあと、すぐに市長さんに、安心してくらせるようにお願いしました。川には、その大きさによって、国、県、市がなおす川というきまりがあり ます。そこで横須賀市では、県や国にも協力をたのみました。
 平作川は、県がなおす川になっているので、神奈川県は、急いで工事をすすめました。 工事は、川のまわりをきちんときずり、下の方からくずれないようにして、上からコンク リートのブロックできれいにし、川ぞこも深くほりさげます。この工事には、たくさんお金がかかるので、県では、国からもお金を出してもらいました。そして、あの“たなばた 水害”から25年近くたった今でも、平作川付近の人びとが安心してくらせるように、県では、JR久里浜駅前の川のはばを広げる工事をすすめています。
 
川ぞこをほりさげる
工事のようす
   
改修前の平作川のようす 改修後の平作川のようす

 

1.市のしごと


 平作川に流れこんでいる吉井(よしい)川や矢部(やべ)川は、市がなおす川になっているので、横須賀市は、川の水がよく流れるようにいろいろと考えました。
 吉井川は、もともと低い土地にあるので、いくら川岸をなおしても、大水が出ると水がどんどんたまってしまうだけでうまく流れません。そこで市は、吉井川が平作川とつながるところに、大きな電気のモーターをまわし、ポンプで水を平作川に流すことを考えました。そして、国にもお金を出してもらい、12億円をかけて、1977(昭和52)年に大きなポンプ場(舟倉(ふなぐら)ポンプ場)をつくりました。このポンプ場の機械(きかい)が動くと、吉井川の水はポンプによって、どんどん平作川に流れるしくみになっています。このように、市や県、国の協力によって、水害で苦しんだ人びとのくらしは、少しずつよくなっています。
舟倉ポンプ場

 


◎ これまで学習してきたことを、グループごとに「紙しばい」や「絵地図」などをつくって、まとめてみましょう。
 

 

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公開日:2023年10月16日 04:00:00
更新日:2023年11月01日 11:23:17