横須賀のまち

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カテゴリ: はじめに
横須賀のまち

横須賀市については、小学校3,4年生が中心となって学習します。

横須賀市の自然や施設、農業、漁業、工業、商業などを学習し、今まで以上に横須賀市について深く知ってもらうために作成しました。

いろいろなことを調べるときにぜひ活用してください。

 

内容のお問い合わせは、教育指導課へ

 

 

 

     

(外部リンク:横須賀市のサイトに移動します)

 

公開日:2023年10月16日 12:00:00
更新日:2023年10月30日 09:37:44

カテゴリ:1.わたしたちの町とコミュニティセンター
1.わたしたちの町とコミュニティセンター

 

わたしたちの町には、コミュニティセンターとよばれているたて物があります。コミュニティセンターには、町の人々がおとずれてへやを利用(りよう)しています。どのようなことに利用 しているのか、調べてみましょう。

(平成20年4月1日から、公民館と地域自治活動センターは、コミュニティーセンターとして生まれ変わりました。)

 

公民館=コミュニティセンター

 

上の写真にのっていることのほかにも、どのようなことに利用(りよう)されているか、 コミュニティセンターへ行って調べてみましょう。


* 1階は行政(ぎょうせい)センターとして使われています。

 

 コミュニティセンターへ行ってみよう 

コミュニティセンターをたずねてみると、なかにはたくさんのへやがあります。

- コミュニティセンターのなかのへや -

へやのなかには、おとなの人が利用するへやや、わたしたち小学生が利用できそうなへやもあります。コミュニティセンターを多くの人が利用しているようです。 どのへやをどのくらいの人数がつかっているのか調べてみましょう。

 

ある公民館を1年間に使った人数(平成10年度)
へやのしゅるい 使った人数
焼(や)きものに使われる 3,739人
べんきょうに使われる 21,162人
絵をかいたり工作に使われる 7,323人
かいぎに使われる 16,435人
花やおちゃのけいこに使われる 10,145人
りょうりをするのに使われる 4,987人
しゅうかいに使われる 26,670人
体育館(たいいくかん) 25,105人
合計(ごうけい) 115,586人

 



 みんなのための市のしせつ 

市には、公民館のほかにもみんなの生活(せいかつ)にやくだつしせつがあります。どのようにやくだっているか調べてみることにしました。

 

地域自治活動(ちいきじちかつどう)センター



市営(しえい)プール



交通公園(こうつうこうえん)



児童図書館(じどうとしょかん)



公園(こうえん)



横須賀(よこすか)アリーナ・陸上競技場(りくじょうきょうぎじょう)



文化(ぶんか)センター



青少年(せいしょうねん)の家

 

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公開日:2023年10月16日 11:00:00
更新日:2023年11月01日 09:15:47

カテゴリ:2.わたしたちの市のようす調べ
2.わたしたちの市のようす調べ

 

 横須賀市ホームページ

 

 1.横須賀市の地図をひろげて
 2.土地の様子
 3.わたしたちのくらしと交通

 


 1.横須賀市の地図をひろげて 

 まず、あなたの住(す)んでいる町を、この地図でさがしてみましょう。

 

<おおきい画面で見る>


 横須賀市は三浦半島のまんなかにあり、東は東京湾、西は相模湾にはさまれています。わたしたちの住んでいる横須賀市は、どんなとくちょうをもった市なのでしょうか。また、まわりにはどんな市や町があるのでしょうか。この地図や、8ページから14ページの写真(しゃしん)などを使ったり、じっさいにけんがくしたりして、横須賀市の様子を調べてみましょう。


 海に近い所・遠い所・高い所・低(ひく)い所などで、土地の使われかたに、どのようなちがいがあるでしょう。

 

<おおきい画面で見る>

 

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 2.土地の様子 

 

 地図や写真で調べてみると、私たちの市はたいらなところがすくなく、ひくい山が多いことに気がつきました。また、山の上に多くの家がたっていることやトンネルが多く見られることもわかりました。
 市を東京湾(わん)がわと相模湾(さがみわん)がわにわけて、土地のようすにどのようなちがいがあるか調べてみましょう。また、その土地をどのように利用しているかも調べてみましょう。

 

(1)東京湾がわのようす

 東京湾がわには、工場が多くあつまっています。
・追浜地区(おっぱまちく)には、自動車かんけいの工場や船をつくる工場が多く見られます。
・浦賀(うらが)地区には、船をつくったり、しゅうりする工場があります。
・久里浜地区(くりはま)には、かんづめやれいとう食品をつくる工場や電気をつくる工場(発電所)(はつでんしょ)が見られます。
 これらの工場は、港の近くにたてられています。また、平作川のまわりの広(ひろ)くて たいらなところにも、多くの工場があつまっています。

 

浦賀 久里浜工業団地 (こうぎょうだんち)

 

 東京湾がわには、入り海が多いのでたくさんの港(長浦港(ながうらこう)・横須賀本港(ほんこう)・横須賀新港(しんこう)・浦賀(うらが)港・久里浜(くりはま)港など)があります。これらをあわせて横須賀港とよんでいます。
 横須賀本港は、むかしぐんかんの入る港でした。いまは、長浦港の一部とともに、アメリカ軍や海上自衛隊(かいじょうじえいたい)に使われています。
 横須賀新港からは、おもに外国にうる自動車がつみ出されています。
 浦賀・久里浜港からもたくさんのにもつが出入りしています。
東京湾がわの土地のひくいところには、じゅうたくや商店が多くあつまっています。これらの土地は、むかしからのうめたてによって広げられて使われるようになったそうです。
 市の中心地である小川(おがわ)町・大滝(おおたき)町・若松(わかまつ))町もうめたてによってできた町です。ここには、市役所・けいさつしょ・ゆうびんきょくなど、わたしたちのくらしにやくだつたて物があつまっています。大きなデパートや多くの商店があつまっているので、多くの買い物きゃくのすがたが見られます。

 

横須賀本港 横須賀新港
   
久里浜港 中央(ちゅうおう)駅前

 

 谷戸(やと)とよばれている山と山のあいだにひらけた町があるのも、横須賀の町のとくちょうのひとつです。
 これらの谷戸の町との行ききやほかの市との行ききのためにむかしからトンネルがほられました。
 また、山の上をけずって、たくさんのじゅうたくがたてられるようになってきました。
 南の北下浦(しもうら)では、農業がさかんに行われています。

 

谷戸 トンネル
   
山をけずってつくられた団地

 

(2)埋(う)め立(た)てによってできた町

 東京湾には、埋め立てによってできた町があります。馬堀海岸(まぼりかいがん)の近くには多くの家があります。ここは、むかし、海水浴場(かいすいよくじょう)でしたが、 大(だい)きぼな埋め立てが行われて、いまのようなじゅうたく地になりました。

 平成町(へいせいちょう)は、平成4年に埋め立てが完成(かんせい)し、工場や、家などがたてられて、新しい町がつくられています。また新しい港もでき使われています。

 

平成町埋め立て地

 

(3)相模湾(さがみわん)がわのようす

 相模湾には、大きな港はありませんが、おもに漁港として使われていて、ここからは多くの魚が水あげされています。
わかめやのりなどをそだてる仕事やつりきゃくのためにつり船を出す仕事もしています。

 

長井港(ながいこう) 佐島(さじま)港
   
長井の畑

 

 大楠(おおぐす)・長井(ながい)などの地区では、畑が、多く見られます。だいこん・ すいか・キャベツ・みかんなどの多くのやさいやくだもの・花がつくられ、市内だけでなく、横浜や東京へもおくり出されています。

 

(4)衣笠(きぬかさ)・武山(たけやま)のふきんのようす

 武山地区でも、農業(のうぎょう)がさかんです。また、衣笠は駅のまわりにたくさん の商店がたちならび、にぎやかな町になっています。

 

武山の畑 衣笠(きぬがさ)駅のまわり

 

*衣笠の町名は「きぬかさ」、駅や学校などは「きぬがさ」とよびます。

 

(5)多くのかんこうきゃくがあつまるところ

 横須賀は、海や山があり、自然(しぜん)にめぐまれています。市内の人たちだけでなく、 ほかの市や町の人たちがたくさんおとずれます。

 

観音崎(かんのんざき) 下浦(したうら)海岸
灯台(とうだい)と海岸の美しいところで県立公園(けんりつこうえん)となっています。 砂浜(すなはま)が長く続き、夏は海水浴客(かいすいよくきゃく)でにぎわいます。

 

立石(たていし) 荒崎(あらさき)
海岸に大きな岩があり、遠くには富士山(ふじさん)が見えます。 美しい岩場(いわば)が続き、海辺のハイキングコースになっています。

 

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 3.わたしたちのくらしと交通 

 わたしたちは、自分たちのすんでいる町からほかの町や市へ行くときに、電車や自動車を使って行ききをします。鉄道や道路(どうろ)が市内のどこを通って、ほかの町や市とど のようにむすびついているか調べてみましょう。

●鉄道のようす
 市内には、JR(ジェイアール)横須賀線と京浜急行(けいひんきゅうこう)線の鉄道がはしっています。 市内やほかの市や町との行ききにやくだっています。駅は朝や夕方、会社(かいしゃ)や学校への行き帰りの人でたいへんこんでいます。

 

JR横須賀駅 横須賀中央駅

 

●道路(どうろ)のようす
 市内には、国道(こくどう)や県道(けんどう)・市道(しどう)が通っています。バス・トラック・乗用車(じょうようしゃ)が走り、人やにもつを運んでいます。
  横須賀市とどのような市や町とが道路でむすばれているか、地図で調べてみましょう。
  横浜へ通じる国道16号線は、朝・夕方のじゅうたいがひどく、車がなかなか動かない ことがあります。
  そこで、はやくほかの市や町へ行くための横浜横須賀道路ができました。わたしたちは、 遠足などに使っています。
  また、本町山中有料道路(ほんちょうなかやまゆうりょうどうろ)もできて横浜横須賀 道路とのつながりもはやくなりました。

 

国道のじゅうたい 佐原(さはら)インターチェンジ
  平成2年かいつう

 

●海の交通
 横須賀の港からは、国内だけでなく外国へ船が行ったりきたりしています。
 となりの千葉県(ちばけん)とは、久里浜港から出るフェリーでむすばれています。
 フェリーは、人や乗用車・バス・トラックなどをつんで行ききしています。

 

フェリーのりば

 

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公開日:2023年10月16日 10:00:00
更新日:2023年11月01日 09:22:43

カテゴリ:3.市の人びとの仕事
3.市の人びとの仕事

 

 わたしたちの市には、やく43万人がすんでいます。市には、じゅうたくや工場の多いところ、田や畑の多いところ、商店や役所の多いところなどがあり、場所によってようす にちがいがみられます。
  それぞれの場所で、人びとはどんな仕事(しごと)をしているか調(しら)べてみましょう。しょう。また、仕事のくふうも調べてみましょう。

 

 1.仕事調べ
 2.商店ではたらく人
 3.工場ではたらく人
 4.田や畑ではたらく人
 5.海ではたらく人

 


 

 1.仕事調べ 

 わたしたちのクラスの家の人は、どんな仕事をしているでしょう。 仕事のしゅるいを、つぎのようにわけて調べてみましょう。

 

田や畑の仕事 海の仕事
けんせつの仕事 工場の仕事
店の仕事 人や物をはこぶ仕事

 

 下のグラフは、市全体の人の仕事調べをしたものです。わたしたちのクラスの家の人は、 どんな仕事をしている人が多いかを調べて、くらべてみましょう。

市の人びとの仕事調べ(平成7年国勢調査)

どれにも入らないときは、そのほかの仕事としました。

 

組み合わせがまちがっている写真をおしてみましょう

春に田植えをして、秋の収穫まではじっくりお米を育てます。
日本は海に囲まれた国です。その中でも三浦半島は漁業がさかんです。四季それぞれにいろいろな種類の魚をとっています。
ビルやマンションなど、ひとつの建物をたてるのには多くのひとびとがかかわっています。
自動車は流れ作業で作られます。タイヤ、ハンドルと次々に組み立てられ、1台の自動車となっていきます。
横須賀に住んでいるひとびとのために、住民票も発行や、いろいろな手続き、相談を受けています。
毎朝、横須賀から東京までとれたての新鮮な魚を運びます。

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 2.商店ではたらく人 

(1)買い物調べ

 わたしたちは、家の近くで買い物をしたり遠くまで出かけたりします。

● 自分の家の近くで買うものは、どんなものがあるかしらべてみましょう。

 わたしたちの家の近くの商店では、どのようなものを買っているのでしょう。

デパート
ちゅう車場のある大きな店
コンビニエンスストア

 大きな店や商店がいには、多くの品物があります。夜おそくまであいている店で買うこともあります。

 

(2)買い物きゃくと品物のながれ

 市内には、8,500けんほどの商店があります。商店がどこに多く集まっているのか、また集まっているわけを調べましょう。

 

(3)商店のくふう

 市内には、多くの店があることが分かりました。店ではたらく人は、たくさんのおきゃくさんに買ってもらうために、どのようなくふうをしているか調べてみましょう。

ちらしこうこく
かざりつけ
やすうり

 1けんの店で、できないときには、どうしているか調べてみましょう。

アーケード 大うり出し
きょうどうちゅう車場 歩道(ほどう)を広げる

 人の行ききや品物のながれに目をむけてみましょう。

 市内の商店は、駅や大きな道路(どうろ)の近くに集まっています。わたしたちの家か らはなれたところにある商店へ買いに行くときは、鉄道や車を利用します。品物も、どのようにしてはこばれてくるか調べてみましょう。

 市外の商店街(がい)へ行くのは、どんな買い物をするときでしょう。

 

横浜駅(西口) 横浜駅(東口)
伊勢佐木(いせざき)町(横浜) みなとみらい21(横浜)

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 3.工場ではたらく人 

(1)市内にあるいろいろな工場

 わたしたちの生活では、工場で作られたものがやくにたっています。

 市内の工場では、どこでどのようなものが作られているか調べてみましょう。


押すと、写真が開きます

 1 自動車工場

 2 自動車部品(ぶひん)工場

  3 久里浜工業団地
 (くりはまこうぎょうだんち)
 4 食品(しょくひん)工場
 5 ビデオ工場  

 

(2)市内の向上の数とはたらく人

 市内には、自動車をはじめとして、さまざまな物をつくる工場があることがわかりまた。 市内には、どのくらいの数の工場があり、そこではたらく人数は、どのくらいいるでしょうか。

 

(3)つくった品物の金額(きんがく)のうつりかわり

 市内でつくられている品物の金額は、どのようにかわってきているでしょうか。下のグラフで調べてみましょう。

 市内でつくられている品物は、自動車・船が中心ですが、そのほかの品物がどれだけつくられているでしょうか。

(4)工場と交通

 工場のある場所を地図で見てみましょう。

 工場が多く集まっているのは、どのようなところでしょう。

 

(5)自動車のできるまで

 市内で大きな工場のひとつである自動車工場を調べ、材料(ざいりょう)やできあがった製品がどこからきたり、どこに送られるのかみてみましょう。

 また、工場の中では、どのような仕事があるのか調べてみましょう。

自動車工場ではたらく人の1日はどうなっているか調べてみましょう。

連続二交代制
早 番 遅 番
6:30
しごと
8:50
休けい
9:00
しごと
11:00
ひる休み
11:45
しごと
13:30
休けい
13:40
しごと
15:30

16:00
しごと
18:20
休けい
18:30
しごと
20:30
ひる休み
21:15
しごと
23:00
休けい
23:10
しごと
0:30

 

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 4.田や畑ではたらく人 

(1)農業のさかんなところ

 わたしたちの食たくには、やさいやくだものがならびます。これらのものは、どこでどのように作られているか調べてみましょう。

押すと詳細が開きます
大楠の農家 北下浦の農家 長井の農家

 

 

(2)つくられた作物のながれ

 農家の人々によってつくられた作物は、わたしたちの家へどのようにしてくるのでしょうか。作物の送りさきを調べてみましょう。

共同出荷は農業協同組合(のうぎょうきょうどうくみあい)が中心になっておこなっています。農協(のうきょう)は、農家のそうだんにのり、農家の手だすけをしています。 農業共同組合(農協(のうきょう))
(のうぎょうきょうどうくみあい)

 市内でつくられた作物は、市内にだけ送られているのか調べましょう。

 農協(のうきょう)などによって、市内・県内・県外へトラックで送られます。

 やさいやくだものは、市外からも送られてきます。 どこからどのくらいくるか調べましょう。

 

(3)農家の数のうつりかわり

 さいきん、畑がすくなくなり、そのあとにじゅうたくがつくられています。農家の数も変わってきているのでしょうか。

 

(4)農家のくふう

 農家の人たちは、作物(さくもつ)がよくできるようにどのようなくふうをしているのでしょう

トラクター コンバイン

 畑をたがやす仕事などを機械(きかい)を使って、すくない人数ではやくできるようにしています。

ガラス温室(おんしつ) ビニルトンネル
すいかのつぎ木 早春キャベツと春キャベツ

こまかいめつぎをします。

 

キャベツを二回にわけて
うえています。

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 5.海ではたらく人 

わたしたちの横須賀市は、海にかこまれているので、漁業のしごとをしている人もいます。

(1)市内の漁家(ぎょか)

海ではたらく人の家は、どこにどのくらい集まっているか調べてみましょう。

 漁家の数は、東海岸と西海岸をくらべるとどちらが多いでしょう。

長井港 鴨居港

 

(2)水あげされる魚

 漁がおわると、港(みなと)にはたくさんの魚が水あげされます。 どんな魚がどれだけ水あげされているのか調べてみましょう。

イワシ漁
漁師(りょうし)の人たちは、多くの魚をとるためにくふうをしています。 とるだけでなく、魚・のりなどの海草をそだてるしごともしています。  
のりのようしょく ぶりをそだてる

 

(3)海ではたらく人の生活

 漁師の人たちは、海に出てしごとをしています。えものによって、時期(じき)や仕事の時間がちがうようです。

 漁師の人は、魚をとったり、そだてたりするしごとのほかにどのようなしごとをしているのでしょう。

 港をたずねてみると、近くにつり船のかんばんが見られます。 海でつりをたのしむ人のために船を出すしごともしています。

 
つり船
 

     大雨や台風(たいふう)のときは、漁師の人は海に出られないことがあります。

 このようなときは、どんなしごとをしているのでしょう。

あみのていれ

 

(4)魚が家にとどくまで

 漁師の人たちは、海に出てしごとをしています。えものによって、時期(じき)や仕事の時間がちがうようです。

横須賀市から送り出される量15380トン(平成6年調べ)

※わたしたちが食べている魚は、市内の港から水あげされたものだけでしょうか。市内のほかにどこからきているか調べてみましょう。

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公開日:2023年10月16日 09:00:00
更新日:2023年11月01日 09:57:06

カテゴリ:4.横須賀のむかしを見つけよう
4.横須賀のむかしを見つけよう

 

 1.まちのむかしさがし
 2.学校のうつりかわり
 3.市の人びとのくらしのうつりかわり
 4.おまつりや行事を調べよう

 


 

 1.まちのむかしさがし 

「わたしたちが生まれる前のまちのようすは、どんなだったんだろう。」

―― ふだんなにげなく歩いている道のりょうがわや、毎日、元気よく遊んでいる公園や広場のかたすみに、まちのむかしを知るヒントとなるものがあるかもしれません。「あなたの住んでいるまちは、どうですか。」――

まちを歩いて、むかしのことがわかるものをあつめてみましょう。

 

まちのむかしがわかるもの

石のとう 庚申塔
(こうしんとう)

お寺 石(せき)ひ
(公郷町3丁目) (東浦賀町2丁目東林寺) (公郷4丁目公園)
     
家(わらぶき屋ね) 神社  
(池田町4丁目) (追浜本町1丁目雷神社) (坂本町1丁目)

 

 まちのむかしさがしをしているうちに、わたしたちは、「むかしの人たちは、どんな生活をしていたのか。」とても知りたくなりました。―― そして、むかしの道具集めをしてみることにしました。

 

むかしの生活がわかるもの

かまど

でんわき 古いお金
     
かや むかしの漁(ぎょ)具 五だまそろばん

※むかしは、夏の夜、蚊(か)をふせぐために、へやの中に蚊帳(かや)をつって、その中でねました。

 

はくぶつ館(かん)へいこう!

☆ はくぶつ館には、市のむかしのことがわかるものや、むかしの人が使った道具などがならべられています。

 

 横須賀市自然・人文博物館:
 http://www.museum.yokosuka.kanagawa.jp/

 

 国立科学博物館:
 http://www.kahaku.go.jp/

 

☆ 家の人や近所の人に、いろいろなことをきいてみましょう。また、毎年行われる行事の中にも、むかしの人びとのくらしやねがいを知ることのできるものがあります。

○ あつめたものを、クラスで話しあって、古いじゅんにわけてみましょう。
  そして、絵の年表(ねんぴょう)をつくってみましょう。

 

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 2.学校のうつりかわり 

 つぎに、わたしたちが、毎日勉強している学校をたんけんしてみましょう。

―― 「1年生の時から今までに、なくなったり、ふえたりしたものはないでしょうか。」――

 学校によっては校庭に、太くて大きな木があります。また、友だちと遊ぶ遊具(ゆうぐ)の中にも、むかしから使われてきたものがあるかもしれません。

 

 

 わたしたちの学校が、いつごろできて、どのようにかわってきたのか、調べてみましょう。まず、校しゃの中やまわりをたんけんして、「学校のむかしさがし」をしてみましょう。

校庭の木(逸見(へみ)小学校)  

 

「学校のむかしさがし」でみつけたもの

記ねんひ

古い時計

記ねんし

(衣笠小学校) (汐入小学校)  

 

 わたしたちのグループが、「学校のむかしさがし」で校長室におじゃますると、校長先生が、わたしたちの学校の記ねんしと古いそつぎょうアルバムを見せてくださいました。

 また、友だちのグループは、体育館(かん)で、10年前のそつぎょう生がのこしてくれた、校歌がほられてある板をみつけたようです。いつも、なにげなく見ていた校歌の板が、10年も前のものだったとは、とてもびっくりしてしまいました。

 

○ いろいろな人に話を聞き、アルバムや記ねんしなどで調べてみましょう。そして、絵や文で、あなたの学校の年表をつくってみましょう。

 

 

(1)横須賀にはじめて学校ができたころのようす

校しゃのようす   ふくそうやかみがたのようす
 
 衣笠(きぬがさ)小学校ができる前の「北小学校」のようすです。衣笠小学校は、この北小学校と南小学校とがいっしょになって、1908(明治(めいじ)41)年、今のところに校しゃができました。(このしゃしんは、明治のはじめごろのものです。)    1899(明治32)年の大津(おおつ)小学校のそつぎょうしゃしんです。わたしたちのふくそうやかみがたとくらべて、どうですか。
     
勉強のようす   教科書
 
 1922(大正(たいしょう)11)年の浦郷(うらごう)小学校のしゃしんです。「しゅう身(しん)」という勉強をしています。     わたしたちの使っているものとくらべて、どうですか。 

 


 わしが、明治(めいじ)34年に汐入(しおいり)小学校に入学したころの話じゃ!坂本(さかもと)6丁目から学校まで、50分ぐらいの道のりだったが、こまげたをはいてかよう小学生にとっては、近くに学校ができないかと、いつも思ったもんじゃ!昭和(しょうわ)のはじめごろだったと思うんじゃが、坂本小学校ができたときは、近所の子どもたちは、大よろこびだった。

 

 
 1921(大正(たいしょう)10)年の鴨居(かもい)小学校の「運動会」のしゃしんです。   ドッジ・ボール?いや、バレー・ボールのようです。1925(大正14)年の浦郷小学校のしゃしんです。

 


 わたしは、明治43年に船越(ふなこし)小学校に入学したんですが、1年生のころは、国語の読本(とくほん)や算術(さんじゅつ)の本や、修身(しゅうしん)の本などといっしょに、石盤(せきばん)や石筆(せきひつ)もふろしきにつつんで、学校へ行きました。石盤に字のれんしゅうをすると、先生が赤いチョークでまるをつけてくれました。そのまるがきえないように、いつも気をつけて、家にかえったものです。

 

 このころの子どもたちは、あまり遊ぶひまがなかったようです。いつも学校から家に帰るとすぐに、子もりや、田畑のしごと、りょうのしごとなど、家のしごとを手つだっていたそうです。

 

 

(2)おばあさんが子どものころの学校のようす

おばあさんの話

 
 わたしは、1940(昭和15)年ごろに長浦(ながうら)小学校へかよっていました。校しゃは、木のニかいだてでね。入口の所に“足あらい場”がありました。体そうの時間は、紅白(こうはく)のはちまきをして、マラソンたびという白いたびをはいてやりました。はだしでやった子もめずらしくなかったのよ!組はね、男組みと女組みにわかれていてね。女の子は、いつもなわとびや石けりをして遊びました。教室には、電気もストーブもなくて、冬は、とてもさむくてね。だから、手足がしもやけになる子がたくさんいました。給しょくはなくて、毎日、おべんとうを持って行くのですが、食べものが少ない時だったので、家へかえって食事をしてから、また、学校へくる子もいました。5~6年生のころだったと思うけど、女の子は、“かんげいこ”といって、冬の朝はやく、学校へあつまって、はだしで、“なぎなた”のけいこをしました。わたしが、そつぎょうするころになると、せんそうがはげしくなり、いなかのない子は、“集だんそかい”をしたんですよ!

 

集だんそかい
 1944(昭和19)年から、小学校3年生以上(いじょう)のじどうは、父母からはなれ、先生につれられて、遠くのお寺や神社などで生活をしました。市内からは20校。やく5500人のじどうがそかいしました。
給(きゅう)食
 1943(昭和18)年ごろから、みそしる給食がはじまり、その後、ぞうすい給食になりました。今のようなかん全給食になったのは、1951(昭和26)年からです。

 

 

(3)お母さんが子どものころの学校のようす

お母さんの話

 
 お母さんがかよっていた、1965(昭和40)年ごろはね。おばあさんのころの校しゃとはちがうけど、まだ木の二かいだてだったのよ!トイレは、校しゃからはなれたところにあってね。わたりろうかを歩いて行ったわ。教室には、まだ、けいこうとうがついてなくて、雨の日は、まどがわにつくえをよせて勉強したわ。冬になると、ダルマストーブといって、石たんでもやすストーブがとりつけられ、そのまわりを鉄さくがかこっていたのよ。つくえやいすも、かたそうな木でできていて、つくえは二人用(ふたりよう)の長づくえで、いすは一人(ひとり)用だったわ。
 ふくそうは、お母さんの手づくりのワンピースや手あみのセーターをきている子が多かったわ。ズボンのひざにつぎがあたっている子や、くつ下のゆびの所をついではいている子もたくさんいたわ。体育の時間には、男の子がトレーパンという白い長ズボンをはいて、女の子はブルマというももの所にゴムを入れた、こん色のひだのついたパンツをはいていたのよ。
 あっ、そうだ!お母さんのおねえさんがかよっていたころは、“二部じゅぎょう”といって、同じ教室で、午前中に勉強するクラスと午後から勉強するクラスとがあったそうよ!

 

二部じゅぎょう  市内では、子どもの数がふえたことや、古くなった校しゃのたてかえなどがかさなって、1950(昭和(しょうわ)25)年ごろから1961(昭和36)年ごろにかけて、「二部じゅぎょう」を行った学校がありました。
 左のしゃしんは、鶴久保(つるくぼ)小学校のもので、外から教室をのぞきこんで、勉強のはじまりを待っている子どもたちのようすです。
あなたの家の人にも話を聞いてみましょう。
給食の時間 運動会

 

○ 町や市のうつりかわりは、子どもの数などにもあらわれてきています。

 

○ 下の図は、横須賀市の小・ろう・養護(ようご)学校ができた年を色わけして表したものです。色のちらばり方を見て、どのようなことに気がつきますか。

 

 学校の年表をつくったわたしたちは、むかしの学校のようすをいろいろと知り、前よりもずっと自分の学校がすきになりました。これからは、下級生のためにも、もっと、もっと、よい学校にしなければと思いました。

 

_____________________________________________

学校名は現在の名称を使用しています。

 

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 3.市の人びとのくらしのうつりかわり 

 つぎに、わたしたちの市が、いつごろでき、どのようにかわってきたか、交通を中心に、およそ100年間のうつりかわりを調べてみましょう。そして、絵や文や、図などをくふうして、楽しい「横須賀市の年表(ねんぴょう)」をつくってみましょう。

 

 

(1)横須賀丸(よこすかまる)がかつやくしていたころ

そのころの横須賀村のようす
 正面にならぶ家なみは、今のりん海公園のあたりだそうです。

 

 今からおよそ140年前の横須賀は、人や荷物が集まる港町でした。そのころの人びとは、遠くへ行くのには船で行くのがふつうで、となり村などへ行く時は、山の尾根道(おねみち)などを歩いて行きました。
 そんな港町の横須賀村に、船をつくる工場(※1)ができました。工場では、まず、大小2せきのじょうき船がつくられ、はじめてつくった船だったので、大きい方のじょうき船に、後から「横須賀丸」という名前がつけられました。
 横須賀丸は、1868(明治元(めいじがん))年から、横須賀と横浜をむすぶ船として、かつやくしました。

※1.船をつくる工場は、1865(慶応元(けいおうがん))年からつくられはじめ、「横須賀 製鉄所(せいてつじょ)」とよばれました。 そして、1871(明治4)年には、「造船(ぞうせん)所」とよぶようになり、明治の中ごろになると、「海軍工廠(かいぐんこうしょう)」と名前がかわりました。

 

 

 

 船をつくる工場ができあがると、たくさんの人が横須賀村に住むようになりました。そして、このころから、下町(したまち※3))の海岸がうめたてられ、新しいまちがつくられはじめました。横須賀村は1876(明治9)年、横須賀町になりました。ゆうびん(※4)も、このころはじまりました。

 

むかしのようす 今のようす
1870(明治3年)のしゃしんです。 田戸(たど)小学校がみえます。

 

※2.フランス人のヴェルニーは、船をつくる工場だけでなく、1869(明治2)年、観音崎(かんのんざき)に、日本ではじめての西洋式(せいようしき)のとう台をつくりました。
 また、工場にひつような水は、走水(はしりみず)から水道をつくって(どかんのパイプで)、ひきました。

3.下町(したまち)とよばれる所は、小川町(ちょう)、若松(わかまつ)町、米ヶ浜(よねがはま)、日ノ出(ひので)町、安浦(やすうら)町とつづく海岸ぞいの町で、みんなうめたてによってつくられました(P54に図があります)。

4.ゆうびんは、1871(明治4)年からです。

 

 

(2)横須賀線がしかれたころ

 日本は、外国とのつきあいをはじめてから、陸軍(りくぐん)や海軍(かいぐん)の力を強くするために、横須賀にも、いろいろな軍のしせつをつくりはじめました。
 そして、海軍の大切なしせつが横須賀にうつされると、軍の人や物を運ぶために、鉄道(てつどう)がひつようになりました。こうして、1889(明治(めいじ)22)年に横須賀線がしかれ、横浜や東京都の交通が、とてもべんりになりました。
 はじめのころは、たん線で、じょう気きかん車が客車をひっぱって、1日6おうふくしていました。
横須賀鎮守符 (※1)

 この話は、わしの父から聞いた話じゃが・・・。国鉄(こくてつ)横須賀線がしかれたころの横須賀駅(えき)は終点(しゅうてん)で、駅の右がわにきかん車の向きをかえる所があって、入ってきたきかん車の向きを、二人がかりでかえていたそうじゃ!その後は、電気でかえたそうだが・・・。
 また、そのころ走っていた5500型(がた)というじょう気きかん車の話を「かっこよかった!」といつも聞かされたもんじゃ。

 

 このように、交通がべんりになると、船をつくる工場や軍のしせつなどにかんけいのある人たちが、日本中からたくさん集まって来て、人口は、毎年ふえていきました。
 そして、1907(明治40)年2月15日、横須賀町と豊島(としま)町(※2)がいっしょになって、横須賀市が生まれました。
 このころ、横須賀から浦賀(うらが)へ、また、横須賀から長井(ながい)の間に、乗合馬車(のりあいばしゃ)(※3)も走るようになりました。

 

1921(大正10)年ごろの
国鉄横須賀駅前のようす

 


 大正時代(たいしょうじだい)の国鉄横須賀駅前には、たくさんの人力車(じんりきしゃ)がお客さんを待っていました。でも、ふつうは、あまり乗らず、おいしゃさんや軍人(ぐんじん)さんたちが乗っていたようにおぼえています。また、何けんかの茶店(ちゃみせ)があって、汽車に乗る人たちは、そこでよく出発時こくまで待っていました。発車前になると駅員(えきいん)さんが出てきて、「カラーン!カラーン!」と合図(あいず)のかねをふって、ならしていました。
 ※国鉄(こくてつ)とは、今のJR(ジェイアール)のことです。

※1.「鎮守府(ちんじゅふ)」は、海軍のしせつや軍人をとりしまる所です。はじめは、横浜にありましたが、1884(明治17)年に横須賀にうつされると、船をつくる工場では、軍かんをつくることに力を入れたり、たくさんの軍のしせつがつくられ、やがて横須賀は、“軍港の町”といわれるようになりました。

※2.豊島町・・・公郷(くごう)村、深田(ふかだ)村、中里(なかざと)村、不入斗(いりやまず)村、佐野(さの)村のこと

※3.1899(明治32)年に開通(かいつう)したといわれ、大正(たいしょう)、昭和(しょうわ)のはじめごろにかけて、バスのようなやくめをしていました。

 

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(3)大きな地しんがあったころ

 明治(めいじ)のおわりごろから大正時代(たいしょうじだい)にかけて、わたしたちの市に、電気(※1)や水道(※2)、電話(※3)などがひかれ、されに生活がべんりになりました。乗合(のりあい)自動車(※4)も走り、町もどんどんひらけていきました。
 ところが、1923(大正12)年9月1日、とつぜん、「関東(かんとう)大しんさい」とよばれる大地しんがおきました。
 わたしたちの市でも、家がたおれたり、火事になったりして、大ぜいの死者(ししゃ)(※5)が出てしまい、町の大部分がめちゃめちゃになってしまいました。
 しかし、町の人たちの力で、新しい町づくりがすすめられました。
関東(かんとう) 大しんさいのようす

 


 午前11時58分、ゴーッという地なりとともに、はげしい上下のゆれがおきました。人びとは、歩くこともできず、家の中や道ばたで、おそろしさにおびえました。よしんもたびたびおこり、家はかたむいたり、つぶれたり、すさまじいすなぼこりの中をにげまどいました。道もいたる所で地われがおき、また、ガケくずれもおきました。そのうち、いろいろな所から火が出はじめました。

 

 

※1.1907(明治40)年、市内に電気がしかれはじめました。

※2.1908(明治41)年、市えいの走水(はしりみず)水道ができました。

※3.1905(明治38)年、横須賀郵便局(ゆうびんきょく)で電話交かんがはじまりました。

※4.大正から昭和(しょうわ)のはじめごろにかけて走りました。手をあげると、どこでも止まってくれて、10人ぐらい乗るといっぱいになってしまう、小さなバスのような自動車でした。

※5. 市内では、死者およそ700人、けがをした人およそ1,200人でした。

 

 

(4)湘南電車(しょうなんでんしゃ)がしかれたころ

 1930(昭和(しょうわ)5)年、浦賀(うらが)から横浜(よこはま)の黄金町(こがねちょう)まで、湘南電車(※1)が走るようになりました。横須賀市はこのころ、衣笠(きぬかさ)村や田浦(たうら)町など、まわりの町や村といっしょになって、どんどん大きくなって行きました。 平坂通(ひらさかどお)りの
湘南電車のガード
(遠くに乗合自動車が見えます)
 しかし、市の人びとのくらしはだんだん悪くなり、工場ではたらいている人のきゅうりょうが安くなったり、仕事がなくなったりしました(※2)。また、軍(ぐん)の力が強くなり、軍のしせつが見える高いところにのぼることもできなくなりました。

 

逸見上陸門(へみじょうりくもん)   重砲兵連隊
(じゅうほうへいれんたい)の門
 
 軍かんの出入りする港がつくられ、たくさんの軍の人が、この門を通って、町へ出ました。    陸軍(りくぐん)の兵隊(へいたい)が、住んでいましたが、戦後(せんご)は学校のたて物として使われ、その後、鉄きんの校しゃにたてかえられました。

 

※1.今の京浜急行(けいひんきゅうこう)です。湘南電車(湘南電鉄(でんてつ))は、1942(昭和17)年に東京(とうきょう)急行電鉄となり、1948(昭和23)年、京浜急行電鉄になりました。

※2.1929(昭和4)年ごろから、世界中が不景気(ふけいき)になりました。

 

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(5)大きな戦争(せんそう)があったころ

 やがて日本は、アメリカをはじめとるす世界の多くの国をあい手に、戦争を始めました。そのころ、町の大きなたて物や、道路のまわりの家などはほかの所へうつされ、市の人びとは、山のがけなどに防空(ぼうくう)ごうをほりました。

 

光心寺(こうしんじ)
(衣笠栄町1丁目)

  広げようとした道(京急逸見駅前)
 
 今のベースの中にあったお寺です。軍(ぐん)のしせつをつくるためにたちのかされました。この時、神社や家など、400けんぐらいもいっしょにたちのきました。    ばくげきをさけたり、軍にひつような物をたくさん運ぶために、道を広げようとしましたが、戦争にまけて中止(ちゅうし)になり、そのままとりのこされてしまいました。
     
防空ごう   防空えんしゅう
 
 ばくだんやしょういだんをさけるために、横あなをほったり、道路やにわなどにあなをほり下げて、土を上にかぶせて、その中に身をかくしました。    ひこうきからおとされたしょういだんで、家が火事にならないようにと、バケツリレーで水を消すくんれんをしました。

集だんそかいの話

 朝、7時までにふとんをかたづけて、ひとつの井戸(いど)でじゅんばんに顔をあらいます。
 つぎに、へやとにわのそうじをして、8時に朝ごはんでした。そして、みんなでいっしょに勉強をします。昼ごはんを食べてから遊び、夕ごはんをすますと自由(じゆう)時間でした。
 でも、冬の夜は、すきま風が入って、とてもさむかったです。だんぼうのないへやに、みんなでかたまってねました。
 「家にかえりたい!」といって、なき出す子やおねしょをする子もいました。
 ノミやシラミがふえて、とてもこまりました。せんたくをしたくても、今のような石けんはなく、いちばんこまったことは、食べ物がなくなっていくことでした。

 

 

(6)長い戦争が終わって

 戦争がはげしくなった1944(昭和(しょうわ)19)年、久里浜(くりはま)の海軍(かいぐん)しせつへ、国鉄(こくてつ)横須賀線(せん)がのばされ、また、この2年前の1942(昭和17)年に、京浜急行久里浜線(けいひんきゅうこうくりはません)がしかれました。
鉄道こぼれ話
名前をかえた駅(えき)
 今の京浜急行線の「新大津(しんおおつ)駅」は、そのころ「鳴神(なるかみ)駅」、「北久里浜駅」は、「昭南(しょうなん)駅」とよばれていました。これは、そのころ、日本軍がせんりょうしたキスカ島(鳴神)と、今のシンガポール(昭南)からつけた名前です。
 その後、1948(昭和23)年に、鳴神駅は今のように、昭南駅は「湘南井田(しょうなんいだ)駅」と名前をかえました。《昭南井田が今のようになったのは、1963(昭和38)年です。》
今はない相模金谷駅(さがみかなやえき)
 1945(昭和20)年4月から8月まで、今のJR(ジェイアール)横須賀駅と衣笠(きぬがさ)駅の間(今の三浦高校(みうらこうこう)わきのガード近く)に、とくべつにつくられた駅でした。
 そのころ、海軍工廠(こうしょう)にはたらいていた人のためにつくられ、戦争がおわると、とりこわされてしまいました。

 

陸軍重砲連隊のしせつだった、
そのころの坂本中学校

 そして、1945(昭和20)年8月15日、長い戦争がおわると、軍の人や軍のしせつではたらいていた人たちや、その家ぞくが、つぎつぎと横須賀をひきあげていきました。
 軍のしせつはアメリカ軍が使い、軍のたて物は、学校や、外地(がいち)からひきあげてきた人たちの住たくに使われました。このころは、多くの人が、食べる物や着る物に不自由(ふじゆう)し、たいへん苦しい生活をしていました。

 

このころの乗り物

原動機(げんどうき)つきの
輪タク(昭和20年代)

三輪(さんりん)トラック
(昭和30年代)

_________________________________________________

日本がせんりょうしていた外国の土地。

 

 

(7)平和産業都市(へいわさんぎょうとし)へ

 アメリカ軍(ぐん)にせんりょうされていた軍のしせつは、横須賀市にとって大切な場所でした。しかし、そのしせつも、少しずつ日本へ返されて、造船(ぞうせん)会社やくつ下工場、かんづめ工場や研究所などになり、「軍の町」から「平和産業都市」へと生まれかわるもとになりました。

 

研究所が集まった武山
海軍のしせつが、たくさんあった所でしたが、
今は、大学や会社の研究所になっています。

 

 また、横須賀市は港をととのえ、さらに平和産業をのばすどりょくをしてきました。そして、新しい工場や会社がつぎつぎとふえ、そこではたらく人びとが、うつり住むようになり、そのうえ、首都(しゅと)東京から1時間あまりの所にあるので、人口は、ますますふえてきています。

 

 

 

 

_______________________

1948(昭和(しょうわ)23)年、横須賀港(こう)が「軍港」から「貿易(ぼうえき)港」になりました。
 

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(8)これからの横須賀市

 これからさき、いつまでも、わたしたちが安心して生活をつづけられるために、あなたは、横須賀市がどんな都市(とし)になっていったらよいと思いますか。
つぎの3つのことについて、みんなで話しあってみましょう。


 1.今のままのこしておきたいもの
 2.今あるもので、もっとよくしたいもの(なおしたいもの)
 3.新しくつくるとよいもの


 そして、これまでの学習をもとに、「これからの横須賀市」という作文や絵をかいてみましょう。


 それでは、横須賀市では、どんな都市(とし)にしようと考えているのでしょうか。市役所では、「国際(こくさい)海の手文化(ぶんか)都市」をめざして、つぎのようなまちづくりの目標(もくひょう)を立てています。 

 

 1.いきいきとした交流(こうりゅう)が広がるまち
 2.海と緑(みどり)を生かした活気(かっき)あふれるまち
 3.個性豊(こせいゆた)かな人と文化が育つまち
 4.健康(けんこう)でやさしい心のふれあうまち
 5.安全(あんぜん)で快適(かいてき)に暮(く)らせるまち

 

湘南国際村計画 横須賀リサーチパーク計画
● 三島半島中央道路 ● 長井海の手公園
三島半島縦貫道路 ● 海上都市計画
東京湾口道路 よこすかポートフロンティア計画
ウェルシティ整備事業  

 

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湘南国際村計画

(しょうなんこくさいむらけいかく)

 横須賀市と葉山町にまたがる地区に、国際交流(こうりゅう)を目的とする施設(しせつ)づくりが進められています。1994(平成6)年に村の一部がオープンし、全体の完成(かんせい)は2000(平成12)年ごろの予定(よてい)です。

 

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横須賀リサーチパーク計画

 長沢・野比地区の丘陵地(きゅうりょうち)に、情報通信(じょうほうつうしん)の研究開発(けんきゅうかいはつ)施設がつくられました。1997(平成9)年度に、その一部が完成し、使われはじめています。

 

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三浦半島中央道路

 県道横須賀逗子線(ずしせん)から湘南国際村を通り、県道横須賀三崎(みさき)線につながる道路で、湘南国際村の完成にあわせて、前線が開通(かいつう)する予定です。

 

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長井海の手公園

 長井住宅地区跡地(あとち)を市民の交流やいこいの場所として使うために、木々(きぎ)や多目的(たもくてき)グランド、体験農園(たいけんのうえん)などをそなえた総合(そうごう)公園がつくられます。

 

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三浦半島縦貫(じゅうかん)道路

 横須賀市衣笠町から三浦市初声(はっせ)町をむすぶ道路で、県道横須賀三崎線のバイパスとして、横浜・横須賀道路につながる予定です。

 

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金田湾(かねだわん)(野比沖(のびおき))

海上都市計画

 

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東京湾口(とうきょうわんこう)道路

 横須賀市から千葉(ちば)県富津(ふっつ)市にかけて、浦賀水道(うらがすいどう)を横断(おうだん)する道路で、現在(げんざい)、基礎的(きそてき)な調査(ちょうさ)が行われています。

 

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よこすかポートフロンティア計画

 新港(しんこう)町から走水の沖合(おきあい)をうめたて、客船(きゃくせん)や貨物(かもつ)船がとまる港(みなと)や、魚や海のことを研究する施設などがある、新しいまちをつくる計画があります。完成は、21世紀(せいき)はじめの予定です。

 

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ウエルシティ整備事業(せいびじぎょう)

 JR横須賀駅の西側(にしがわ)に健康増進(ぞうしん)センターや市民(しみん)のための学習施設、お年寄(よ)りのための住宅(じゅうたく)などをつくっています。

 

 

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 4.おまつりや行事を調べよう 

 

 むかしからつたわる“おまつりや行事”の中に、むかしの人びとのくらしやねがいを知ることのできるものがあります。


 あなたの住んでいるまちには、どんな“おまつりや行事”がありますか。つぎのことをさんこうに、いろいろな人に話を聞いて、調べてみましょう。そして、これらのものを、わたしたちもうけつぎ、大切にしていきましょう。


 横須賀市観光イベントカレンダー:
 http://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/event/index.html


 
市内のおもな”おまつりや行事”

 

みなと祭り あめやおどり
おんべやき とらおどり
● とっぴきぴー  

 


 

みなと祭り

 1947(昭和22)年に第1回が行われ、そのころは、「黒船まつり」とよばれました。毎年、50ぐらいの音楽隊(たい)やかそう行列(ぎょうれつ)などのさんかがあり、横須賀を代表する市民(しみん)イベントとして、にぎやかに行われています。

 

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あめやおどり

 

 江戸時代(えどじだい)のおわりごろ、安房上総(あわかずさ)(千葉県(ちばけん))から伝えられたといわれています。前は、いろいろないわいごとがあると行われていましたが、今は、長井(ながい)の熊野(くまの)神社のおまつりのときにほうのうされてい ます。
 むかしの人びとの「楽しみのひとつ」だったようです。

 

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おんべやき

 

 「おんべやき」のほかに、「どんとやき」、「サイト」、「セート」などとよばれ、かどまつやしめかざりなどを集めてもやし、1年間のぶじをいのります。

 

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とらおどり

 

 1720(享保(きょうほ)5)年、下田(しもだ)(静岡県(しずおかけん))にあった奉行所(ぶぎょうしょ)が、浦賀にうつされたとき、いっしょにつたえられたのではないかといわれています。とらの力で、当時、おそれられていた伝染病(でんせんびょう)(ほうそう)をおいはらっていまおうと考え、行われるようになったのではないかといわれています。
 前は、西浦賀の西叶(にしかのう)神社にほうのうされていましたが、「市民祭(しみんさい)」などのときだけ、行われています。

 

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とっぴきぴー

 1947(昭和22)年に第1回が行われ、そのころは、「黒船まつり」とよばれました。毎年、50ぐらいの音楽隊(たい)やかそう行列(ぎょうれつ)などのさんかがあり、横須賀を代表する市民(しみん)イベントとして、にぎやかに行われています。
 里かぐらの一種(いっしゅ)で、江戸時代(えどじだい)の文化・文政(せい)[1804(文化元)~1829(文政12)年]のころから伝えられたといわれています。「海でじこがないように」とか、「魚がたくさんとれるように」などをいのって、おこなわれます。鴨居(かもい)の八幡(はちまん)神社にほうのうされます。

 

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調べること

 1.どんなおまつり(行事)か。
 2.いつごろおこなわれるか。
 3.どこで行われるか。
 4.どんなことをするのか。
 5.どんなねがいがあるのか・・・など。

 

 

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公開日:2023年10月16日 08:00:00
更新日:2023年11月01日 10:23:59

カテゴリ:5.すみよいくらし
5.すみよいくらし

 

 1.くらしと電気
 2.くらしと下水道
 3.くらしとごみ

 


 1.くらしと電気 

 

わたしたちの家では、電灯(でんとう)、冷ぞうこ、せんたく機、そうじ機、ビデオなど、多くのものに電気が利用されています。その電気はどこで作られ、どのようにおくられてきているのでしょう。

 

V(ボルト)…電圧(でんあつ)の単位(たんい)
W(ワット)…電力の単位

 

 つぎに横須賀市では、電気はどれぐらい使われているかを調べることにしました。

    

  
● 1億(おく)キロワット時は、学校の40ワットけい光灯(こうとう)25億本分を1時間に使う電気の量(りょう)です。

 このだいじな電気は、横須賀の場合(ばあい)、久里浜にある火力発電所で作られているのがわかりました。

火力発電所のしくみ

 火力発電所には、10この発電機(はつでんき)があります。そして、この発電機を使っておこす電気の量は、1年間に約42.8億キロワット時です。これはふつうの家の130万けんで、1年間に使うことができる量です。
(横須賀市は約15万けんです)

 また、もやすもとになる燃料(ねんりょう)(原油(げんゆ)など)は、遠いサウジアラビア・アラブ首長国連邦(しゅちょうこくれんぽう)、インドネシアや中国(ちゅうごく)などの外国(がいこく)から運ばれてくるそうです。わたしたちは、これらの国々(くにぐに)を地図(ちず)や地球儀(ちきゅうぎ)で調べてみようと思いました。

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 2.くらしと下水道 

 

 わたしたちの家などで使われた水は、どのように処理されるのでしょう。

 

下水道のしくみ

 使われた水は、下水道管(げすいどうかん)を通って、浄化(じょうか)センターに集められます。
 浄化センターでは、使われた水をきれいな水にしてから、川や海へ流しています。
 横須賀市では、現在4つの浄化センター(追浜(おっぱま)、上町(うわまち)、下町(したまち)、西(にし))で、水をきれいにしています。
西浄化センター
きれいになっていく水
 下水道のととのっている地いきでは、使われた水は下水道管へ流れていきます。下水道があると川も汚れずに水がきれいになるため、横須賀市では、全市に下水道をしいていくよう計画しています。 下町浄化センター

 横須賀市における、下水道管(げすいどうかん)(直けい1.35mの太い下水道管)1mあたりをしくための費用

追浜浄化センター

 

下水道をひろげる工事

 

 

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 3.くらしとごみ 

 わたしたちのくらしでは、毎日たくさんのごみが出ます。これらのごみは、きめられた曜日に、きめられた場所に出しておくと運んでいってくれますが、そのごみはどこに集められ、どのように処理(しょり)されているのでしょう。
 まず、1けんの家からでるごみの量を調べてみました。

 

 

 

 家からでる、あきびん、あきかん、プラスチック、自転車(じてんしゃ)など、ごみのすべてをもやすわけにはいきません。

 わたしたちの市では、家がたくさんたてられ人口もふえていますが、ごみの量はどうなっているのでしょうか。

 

 

 これだけのごみが市全体で出されているわけですが、そのごみは、どこでどのように処理(しょり)されているのかごみのゆくえをおってみました。

 久里浜に南処理工場があります。
処理工場の人が、

と教えてくれました。



 

 

南処理工場全景
(みなみしょりこうじょうぜんけい)

 

ごみを落としていく収集車

 

 

 ごみをつんだしゅう集車がつぎつぎとやってきて、ごみのなげ入れ口からごみを落としていきます。そのごみを、クレーンで持ち上げてしょうきゃくろにいれてもします。そして、これらのもやす仕事は、コントロール室でかんしし、そうさしているとのことでした。

 

[南処理工場のえんとつの高さも、まわりのかんきょうを考えて高くなっています。]
●南処理工場……………170m
●南戸塚処理工場……… 90m(横浜市)
●港南処理工場…………100m(横浜市)
●保土ヶ谷処理工場……115m(横浜市)

 

ごみを集めたり、処理(しょり)工場などではたらく人と車の数
(平成10年度調べ)

<ごみ・資源ごみをしゅう集する人>

 市の職員………………………………………

 代行業者(だいこうぎょうしゃ)の職員…

 資源ごみ回収(かいしゅう)業者の職員…

 

211

93

40

計344人

<ごみ・資源ごみをしゅう集する車>

 市の車………………………………………… 

 代行業者(だいこうぎょうしゃ)の車…… 

 資源ごみ回収(かいしゅう)業者の車…… 

 

 

89

42

33

計164台

<処理工場ではたらく人>…………………… 78人

 

 

 もしたごみの灰(はい)や、もせないごみは、どのようになっているのでしょう。

 もせないごみは、減容固化施設(げんようこかしせつ)で小さくかためて処理しています。また、もやしたごみの灰は、民間(みんかん)の処分場(しょぶんじょう)でうめてもらっています。これらごみ処理にかかる1人あたりのお金はどのくらいかかるでしょう。

 このように、ごみ処理にもお金がかかります。ごみの中には、資源(しげん)として利用できるものがたくさんあります。ごみとして、すてる前に、資源となるか考えてみましょう。そしてごみはどんなことに気をつけて出したらよいか考えていきましょう。

中央コンピュータ室

 


減容固化施設で小さく固めています

小さく固めたものを処分場へ運びます

 

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公開日:2023年10月16日 07:00:00
更新日:2023年11月01日 10:42:04

カテゴリ:6.安全なくらし
6.安全なくらし

 

 1.火事をふせぐ
 2.けいさつの仕事

 


 

 1.火事をふせぐ 

 火事は、とてもおそろしいものです。火事によって、人の命や家などがいっしゅんにしてなくなってしまいます。
 また、最近(さいきん)では火でなくなるだけでなく、けむりによっても命をおとす人がふえているそうです。(けむりのスピードは1秒間(びょうかん)でよこに0.5m~1mで、階段の下から上へながれるスピードは3m~5mです。3階だてだといっきに3秒ぐらいで上がってしまいます。)
 まず初(はじ)めに横須賀市では、火事でどのくらいの家やたてものなどが、焼(や)けているのか調べてみました。次に、おもな火事の原因(げんいん)は、どのようなものがあるか考えてみました。

 

 

 

あ: 1 → 2 → 3
い: 1 → 3 → 1
う: 2 → 1 → 3
え: 3 → 2 → 1

 

 このような火事が、わたしたちの町におきたらすぐ火を消すことができるように、消火(しょうか)せんや、防火(ぼうか)水そうなどが、使いやすいようにくふうして置かれています。

 

 

消火(しょうか)のしくみ
 地域(ちいき)の消防施設(しょうぼうしせつ)とともに、わたしたちの横須賀市では、 火事をすばやく消すためにどんなしくみになっているのでしょう。

 

 火事の知らせ(119番)があると、米(よね)が浜(はま)にある消防局司令室(しれいしつ)につながります。119番の電話は、市内のどこからでもこの指令室につながります。指令室では、火事の場所に近い消防しょや、消防出張所(しゅっちょうじょ)に火事が起きたことを連絡(れんらく)します。また、消防出張所だけでなく市の水道局(すいどうきょく)や電力会社(でんりょくがいしゃ)、けいさつしょなどにも連絡します。 中央消防署

 火事がおきた場合(ばあい)、できるだけひがいを少なくするために、指令室(しれいしつ)を中心に連絡(れんらく)が一度にできるようになっています。

消防局指令室

 

 

 また、消防しょでは消火のため、いろいろな種類(しゅるい)の車も用意しています。

はしご車
(高いたてものの火を消す車)
ポンプ車
(ポンプを使って水をいきおい
よくとばして火を消す車)
小型ポンプ積載車
(谷戸が多く道路がせまい
地区のための小がたの車)
 そして、火事になった時、市の水道局では水道のもとせんを開きます。電力会社、けいさつなどは事故(じこ)がおきたりしないように活動(かつどう)していることも知りました。
救急車(きゅうきゅうしゃ)

 しかし、なによりもいちばん大事なことを、消防のおじさんが教えてくれました。

消火くんれん 救助(きゅうじょ)くんれん
たてものへの立入り検査 救助活動

 このほか消防しょでは、火事をけすだけでなく、急病人(きゅうびょうにん)やけが人などを病院(びょういん)に運ぶ救急活動(きゅうきゅうかつどう)もしています。
 このように消防しょでは、人のいのちを守るための仕事をしています。

 

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 2.けいさつの仕事 

 

(1)みぢかなけいさつ官
 わたしたちのみのまわりではたらいているけいさつ官は、どんな仕事(しごと)をしているのでしょう。

 落としものをとどけたり、道がわからなくなったりした時に行ったことのある交番で、けいさつ官を見かけたことがあります。 交通整理(こうつうせいり)をしているけいさつ官も見たことがあります。
また、盗難(とうなん)にあった時、急いできてくれます。

 家々(いえいえ)をまわっていくのも、けいさつ官の仕事のひとつです。

 また、このような仕事(しごと)は、いつでも人びとの安全を守るため、夜中まで続けられていることも知りました。

このような仕事は、朝、昼、夜、休みなく続いています。

 

(2)交通事故(こうつうじこ)をふせぐ

 テレビや、新聞のニュースでもわかるように、最近(さいきん)では交通事故が多くなっているため、けがや、なくなった人の数も多くなっています。

 

横須賀市における小学生の交通事故原因調べ(平成10年)

じょうたい別 / 原因別 件数
(けんすう)
けがをした人の数

歩行中

飛び出し 41 41
信号むし 4 4
車のすぐ前や後ろからの横断(おうだん) 8 8
道路(どうろ)での遊(あそ)び 0 0
ななめ横断 4 4
横断してはいけない所の横断 2 2
左側通行(ひだりがわつうこう) 0 0
その他(た)のいはん 7 7
いはんなし 9 9
75 75

自転車に乗っていた時
 

急ぐ時に車がいないかよく見ない 25 25
一時てい止(し)いはん 14 14
歩道(ほどう)や、一方通行の所をぎゃくに走る 2 2
ぼんやりしていたり、わきみなど前をよく見ていない 5 5
その他(た)のいはん 10 10
いはんなし 8 8
64 64
車に乗っていた時(いはんなし) 28 29
合計 167 168

 

 

 わたしたちは交通事故(こうつうじこ)がおきたとき、110番に電話をすることがあります。110番に電話をかけると、どのようにしてけいさつ官はかけつけてくるのでしょう。

 

110番のしくみ

 横須賀市で110番された電話は、神奈川県庁(けんちょう)の近くにある神奈川県けいさつ本部(ほんぶ)の通信指令室(つうしんしれいしつ)にとどきます。ここで電話の内容をもらさず録音(ろくおん)するとともに、110番された所に一番近い、田浦、横須賀、浦賀のいずれかのけいさつしょに連絡(れんらく)をします。すると、けいさつしょは近くの交番に連絡し、けいさつ官がかけつけます。けいさつ官はその場所につくと、わたしたちの安全を守るために原因(げんいん)を調(しら)べ、ふたたび事故などがおこらないようにします。

 

通信指令室
(つうしんしれいしつ)
神奈川県(かながわけん)
けいさつ本部(ほんぶ)

 しかし、事故(じこ)などがおこってはいけないので、横須賀市内のいろいろなところに交番があり、わたしたちのくらしを守(まも)っています。

<おおきい画面で見る>

 

 そのほか、交通かんせいセンターを作って、道路(どうろ)にとりつけられているテレビカメラや、車両感知機(しゃりょうかんちき)、パトカーなどの情報(じょうほう)から、道路のこんざつのようすをいちはやく知らせています。

 交通かんせいセンターの中にある地図板には、県内のおもな道路がかかれていて、赤、黄、緑のランプがついたり、消えたりしています。これらのランプから、道路のこんざつのようすがわかり、車のながれを調節(ちょうせつ)するなどして、交通事故(こうつうじこ)にあわないで安全(あんぜん)な運転ができるようにしています。 交通表示板
(こうつうひょうじばん)
   
車両感知機
(しゃりょうかんちき)
交通案内板
(こうつうあんないばん)
モニター    ↓テレビカメラ

 横須賀中央のテレビカメラで写ったものは、けいさつしょのモニターで見る事ができ、これは、交通かんせいセンターへ情報(じょうほう)として送られます。

 

交通標識
(こうつうひょうしき)

 

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公開日:2023年10月16日 06:00:00
更新日:2023年11月01日 10:59:28

カテゴリ:7.くらしのひろがり
7.くらしのひろがり

 

 1.県のすがた 

 

 神奈川県
 https://www.pref.kanagawa.jp/

 

(1)神奈川県の中の横須賀市

 わたしたちの住んでいる横須賀市は、神奈川県の南東にあります。
 横須賀市は、横浜市、逗子市、葉山町、三浦市にかこまれた三浦半島の中にあります。
 そして、写真(しゃしん)でもわかるように、横浜市は横須賀市の北にあります。県のほぼ中央(ちゅうおう)にある厚木市(あつぎし)は北西の方角にあります。
 山や海岸線など、土地のようすを地図とくらべてみましょう。
 また、わたしたちの横須賀市と、山の多い箱根町、少し高い土地の相模原市(さがみはらし)や、平らな土地が多い横浜市とでは、どのようなちがいがあるのか考えてみましょう。

 

提供:(株)創育

 

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(2)神奈川県のようす

 県全体のようすは、どのようになっているのでしょう。

● 津久井湖 ● 三保ダム
● 箱根 ● 西湘バイパス
● 平塚の花づくり ● 相模川河口
● 川崎駅 ● 横浜
● 逗子海岸 ● 鶴岡八幡宮
● 三浦市の魚市場  

 


 

津久井(つくい)湖

 

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三保(みほ)ダム

 

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箱根(はこね)

 

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西湘(せいしょう)バイパス

 

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平塚(ひらつか)の花づくり

 

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相模川河口(さがみがわかこう)

 

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川崎(かわさき)駅のようす

 

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横浜駅西口

 

県庁付近(けんちょうふきん)

 

横浜港とベイブリッジ

 

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逗子(ずし)海岸

 

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鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)

 

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三浦市の魚市場

 

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(3)県内のおもな鉄道や道路

 横須賀市とほかの市や町とは、どのようにつながっているのでしょうか。

 財団法人鉄道総合技術研究所:
 http://www.rtri.or.jp/

 

● JR京浜東北線 ● 相模鉄道
● 箱根登山鉄道 ● 小田急電鉄
● JR東海道線 ● 江ノ島電鉄
● JR横須賀線 ● 京浜急行電鉄
● 金沢シーサイドライン ● 横浜市営地下鉄線
● 東京急行電鉄  

 


 

JR京浜東北線(けいひんとうほくせん)

 

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相模鉄道(さがみてつどう)

 

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箱根登山鉄道(はこねとざんてつどう)

 

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小田急電鉄(おだきゅうでんてつ)

 

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JR東海道(とうかいどう)線

 

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江の島(えのしま)電鉄

 

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JR横須賀線

 

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京浜急行電鉄

 

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金沢(かなざわ)シーサイドライン

 

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横浜市営(しえい)地下鉄線

 

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東京急行電鉄(東横(とうよこ)線)

 

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公開日:2023年10月16日 05:00:00
更新日:2023年11月01日 11:08:54

カテゴリ:8.くらしを高めるねがい
8.くらしを高めるねがい

 

 1.内川新田(うちかわしんでん)の開発
 2.平作川の改修(かいしゅう)工事

 

上の絵は、1907(明治40)年ごろの久里浜(くりはま)(夫婦橋(めおとばし)付近)のようすをかいたものです。
 この夫婦橋のたもとには、古い石ひがたっています。この供養塔(くようとう)は、今からやく330年ぐらい前にたてられたもので、およそ、つぎのようなことがきざまれてあるといわれています。

「今まで入江※(いりえ)だったところを、8年もかけて、新しく田や畑につくりかえることができました。これも、ほとけ様のおかげです。ありがとうございます。

砂村新左衛門(すなむらしんざえもん)」

 

今の夫婦橋のようす

夫婦橋のたもとにある供養塔


 この供養塔にきざまれてある「砂村新左衛門という人は、どんな人なんだろう。」・「なぜ、8年もかけて、入江だった所を田や畑につくりかえたのだろう。」

―― これらのぎもんについて、くわしく調べてみましょう。

___________________________________

※海が陸地(りくち)にはいりこんだ所。

 

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 1.内川新田(うちかわしんでん)の開発 

 


○ くらしをよくするために、むかしの人びとは、どんなねがいを持ち、どんな苦労をしながらそのねがいを実現(じつげん)させたのでしょうか。ここでは、内川新田を例に、郷土(きょうど)の開発について調べてみることにしましょう。
 

 

(1)新田(しんでん)ができる前の久里浜付近のようす

 江戸(えど)時代(※1)に書かれた本によると、今の久里浜付近一帯は、佐原川(さはらがわ)、大川(おおかわ)、吉井川(よしいがわ)が流れ込む、大きな入江で、その入江のおく(北久里浜寄(よ)り)には、葦(あし)などの草木がおいしげる、自然のままのぬま地がつづいていました。
 入江は、潮(しお)がひく時こくになると、遠く久里浜港(こう)の方まで砂浜(すなはま)が顔を出し、ところどころに、ぬま地や潮だまり(池のようなもの)ができ、潮があがってくると、浅い入江になって、今の久里浜港とつながってしまいました。
 この入江のまわりには、久比里(くびり)、吉井(よしい)、久村(くむら)、八幡(やはた)などの村があり、人びとは、農業(のうぎょう)も漁業(ぎょぎょう)も行って生活をしていました。
 今から330年以上も前のこの時代は、武士(ぶし)の世の中で、村の人びとは、たくさんの米を年ぐ(※2)として、大名(※3)(だいみょう)や将軍(※4)(しょうぐん)におさめていました。

 そこで、少しでも多くの米をつくり、ゆたかな生活をしようと、人びとは、内川入江(うちかわいりえ)のようなあれ地や浅い海、ぬま地などをうめたて、田や畑につくりかえていったのです。これを「新田(しんでん)」といいます。

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※1.徳川氏が、江戸(今の東京)で政治(せいじ)を行っていた時代で、1603年から1867年までをそうよびます。

※2.今のぜい金のことで、農家の人びとは、おもに米をおさめていました。

※3.将軍から、一万石(いちまんごく)以上のりょう地をあたえられていた武士のことです。

※4.日本全国の武士をけらいにしていた“武士のかしら”です。

 

(2)工事がはじまるまで


 砂村新左衛門(すなむらしんざえもん)は、吉田(よしだ)新田(※1)が完成すると三浦半島へ足を進めました。
 そして、大川(おおかわ)(平作川(ひらさくがわ))など、3つの川が流れこむ内川入江を見て、吉田新田で学んだことを生かして、田や畑につくりかえようと思いたったのです。
 新左衛門は、まず、将軍のゆるしをえて、近くの村の人びとに自分の考えを話しました。村の人びとはその話を聞いて、工事に協力することをやくそくしてくれました。
 こうして、1660(万治(まんじ)3)年(※2)、砂村新左衛門を中心に、久里浜(くりはま)付近の村の人びとによって、内川入江の工事がはじまったのです。

_________________________________________

※1.今の伊勢左木町(いせざきちょう)から横浜スタジアムのある横浜公園にかけての一帯にありました。この新田は、そこで商人をしていた“吉田勘兵衛(よしだかんべい)”を中心に開発されたので、そうよばれました。

※2. 1659(万治2)年という説もあるようですが、ここでは、横須賀市史(し)の年表の年をのせました。

 

(3)新田づくり

 砂村新左衛門は、まず、吉井(よしい)の山ぎわに小さな家を建て、そこを工事じむ所としました。江戸(えど)からうでのたつ職人(しょくにん)を何人もよび集め、近くの村からは多くの人びとがやって来ました。
 工事は、まず、海岸にそって、約872mにわたるていぼうをつくり、波が入江にはいらないようにしました。つぎに、大川など、3つの川の両側に土手(どて)をつくって、いくつにもみだれて流れていた川をそれぞれ1本にまとめました。そしてまわりの土地には水路をつくり、近くの山から運んできた土で、水田をつくっていきました。今のようにすすんだ機械(きかい)などなかった時代なので、すべて人や馬、牛の力で工事はすすめられました。

 

 また、今の夫婦橋(めおとばし)がある所には、長さ約126m、高さ約1.8mのていぼうをつくり、そのあいだに、長さ約10.8mの水門を2ヵ所つくりました。
 水門は、潮(しお)のみちひきによって、自然に掛戸(かけど)が開閉(かいへい)するしくみになっていましたが、台風や津波(つなみ)などで、大水が出たと時は、すぐにこわれてしまったり、ひどい時には、ていぼうごと流されてしまったりしたようです。この水門づくりには、いろいろな伝説が残っていることからも、いかに大変だったのかを知ることができます。
 また、せっかくつくった水田や川の土手(どて)なども、何度か流されてしまったことがありました。しかし、新左衛門(しんざえもん)や村の人びとは、こうしたひ害にも負けず、朝早くから夜おそくまで、工事をすすめていったのです。

 こうして、1667(寛文(かんぶん)7)年、8年という年月をかけて、やっとの思いで、新田をひらくことができたのです。内川新田からは、542石(こく)の量の米がとれるようになりました。工事をおえた村の人びとが、この新しい水田で、いっしょうけんめいに米をつくったのです。

 

砂村新左衛門について

 江戸(えど)時代に書かれた本によると、この人は、大阪(おおさか)方面の人で、若いころから各地をまわり、土木工事や農業などの勉強をしていたそうです。久里浜(くりはま)の正業寺(しょうごうじ)にお墓(はか)があります。

___________________________
※福井(ふくい)県の人だという説もあります。

↑正方形の台にみぞがあって、水がたたえてあります。

 

内川新田のバス停
 今は、家や工場などができて、そのおもかげを見ることはできませんが、「内川新田」と いう地名は、一部に残っています。

 

 

 

「夫婦橋の人柱(ひとばしら)」の伝説

 内川新田をつくるためにかけた橋も、川が大水になるたびに流されてしまいました。こんな事が何回もつづくと、村の人々の中には、「これは、神様がおいかりであるにちがいない。神のいかりをしずめるためには、人柱(ひとばしら)をたてなければ・・・。」という話が出はじめました。
 その話はだんだんと広まり、村でも、とくにまずしい家の、美しい娘(むすめ)に、その矢(や)がむけられたのです。「気の毒(どく)ではあるが、まずしい家のことだから、お金で何とかなるだろう……。と、村長たちが娘(むすめ)の家に出かけ、「神のためじゃ。村のためじゃ、ぜひ……。」と両親にお金を出してたのみました。
 両親はもちろん、娘(むすめ)もこの話を聞いて、たいそう悲しみましたが、まずしい家のこと、「神のため、村のためなら……。」と、しょうちしました。
「人柱(ひとばしら)に娘(むすめ)がたてば、きっと神様はいかりをしずめ、願いを聞いてくれるにちがいない。」と、よろこんだ村人たちは、さっそく用意をはじめました。
 まず、大きな箱(はこ)をつくり、その中に娘(むすめ)を入れると、箱(はこ)の中に食べ物と鈴(すず)を入れ、ふたをしめて橋げたの下に、その箱(はこ)をうめました。
 それからというもの、村人たちが橋のそばを気にしながら通ると、鈴(すず)の音(ね)が聞こえてきます。しかし、三日たち、四日たちしていくと、とぎれとぎれで、しだいに小さな音になり、しまいには、とうとう耳をすましても聞こえなくなってしまいました。
 村人たちは、鈴(すず)の音(ね)とともに、娘(むすめ)が天にむかえられたと涙(なみだ)ぐみました。
 それからと言うもの、橋の工事もどんどんすすみ、夫婦橋(めおとばし)は、どんなに大雨がふりつづいても、流されることはなくなったと言う事です。

(田辺悟著「三浦半島の伝説」より)

 

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 2.平作川の改修(かいしゅう)工事 

 


○ つぎに、わたしたちは、むかしの人びとの努力(どりょく)のあとが、今はどのようになっているのか、むかしの工事のようすとくらべながら、調べてみることにしましょう。
 

 

(1)たなばた水害とその原因(げんいん)

 1974(昭和(しょうわ)49)年7月7日の夜からふりはじめた雨(※1)は、9時間もふりつづき、土地の低い平作川(※2)へとたくさん集まってきました。川の出口の久里浜では、水が川からあふれ出し、町じゅうが水びたしになってしまいました。とくに、水害のひどかった所は、むかしから土地の低かった“内川新田”です。
 その原因(げんいん)としては、大水が出た時、水がたまる場所(田や大きな水たまり場など)があったのですが、最近では工場や家などがたくさん建てられ、そのほとんどがなくなってしまいました。また、今では、平作川のまわりの山々がけずられ、住宅(じゅうたく)や団地(だんち)がたくさんできたので、大雨がふると、水が全部川に流れてしまうからだともいわれています。

 

 
ひ害のようす
(舟倉(ふなぐら)町付近)

____________________________________________

※1.7月7日のたなばたの夜から雨がふったので、“たなばた水害”とよばれています。

※2.大楠山のふもとから流れ出し、久里浜港へとそそぐ、三浦半島の中で一番長い川です。

 

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(2)人びとのねがいと改修工事

1.県や国のしごと

 久里浜の人々はこの水害が起きたあと、すぐに市長さんに、安心してくらせるようにお願いしました。川には、その大きさによって、国、県、市がなおす川というきまりがあり ます。そこで横須賀市では、県や国にも協力をたのみました。
 平作川は、県がなおす川になっているので、神奈川県は、急いで工事をすすめました。 工事は、川のまわりをきちんときずり、下の方からくずれないようにして、上からコンク リートのブロックできれいにし、川ぞこも深くほりさげます。この工事には、たくさんお金がかかるので、県では、国からもお金を出してもらいました。そして、あの“たなばた 水害”から25年近くたった今でも、平作川付近の人びとが安心してくらせるように、県では、JR久里浜駅前の川のはばを広げる工事をすすめています。
 
川ぞこをほりさげる
工事のようす
   
改修前の平作川のようす 改修後の平作川のようす

 

1.市のしごと


 平作川に流れこんでいる吉井(よしい)川や矢部(やべ)川は、市がなおす川になっているので、横須賀市は、川の水がよく流れるようにいろいろと考えました。
 吉井川は、もともと低い土地にあるので、いくら川岸をなおしても、大水が出ると水がどんどんたまってしまうだけでうまく流れません。そこで市は、吉井川が平作川とつながるところに、大きな電気のモーターをまわし、ポンプで水を平作川に流すことを考えました。そして、国にもお金を出してもらい、12億円をかけて、1977(昭和52)年に大きなポンプ場(舟倉(ふなぐら)ポンプ場)をつくりました。このポンプ場の機械(きかい)が動くと、吉井川の水はポンプによって、どんどん平作川に流れるしくみになっています。このように、市や県、国の協力によって、水害で苦しんだ人びとのくらしは、少しずつよくなっています。
舟倉ポンプ場

 


◎ これまで学習してきたことを、グループごとに「紙しばい」や「絵地図」などをつくって、まとめてみましょう。
 

 

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公開日:2023年10月16日 04:00:00
更新日:2024年12月03日 10:07:28