横須賀のまち

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カテゴリ:4.横須賀のむかしを見つけよう
4.横須賀のむかしを見つけよう

 

 1.まちのむかしさがし
 2.学校のうつりかわり
 3.市の人びとのくらしのうつりかわり
 4.おまつりや行事を調べよう

 


 

 1.まちのむかしさがし 

「わたしたちが生まれる前のまちのようすは、どんなだったんだろう。」

―― ふだんなにげなく歩いている道のりょうがわや、毎日、元気よく遊んでいる公園や広場のかたすみに、まちのむかしを知るヒントとなるものがあるかもしれません。「あなたの住んでいるまちは、どうですか。」――

まちを歩いて、むかしのことがわかるものをあつめてみましょう。

 

まちのむかしがわかるもの

石のとう 庚申塔
(こうしんとう)

お寺 石(せき)ひ
(公郷町3丁目) (東浦賀町2丁目東林寺) (公郷4丁目公園)
     
家(わらぶき屋ね) 神社  
(池田町4丁目) (追浜本町1丁目雷神社) (坂本町1丁目)

 

 まちのむかしさがしをしているうちに、わたしたちは、「むかしの人たちは、どんな生活をしていたのか。」とても知りたくなりました。―― そして、むかしの道具集めをしてみることにしました。

 

むかしの生活がわかるもの

かまど

でんわき 古いお金
     
かや むかしの漁(ぎょ)具 五だまそろばん

※むかしは、夏の夜、蚊(か)をふせぐために、へやの中に蚊帳(かや)をつって、その中でねました。

 

はくぶつ館(かん)へいこう!

☆ はくぶつ館には、市のむかしのことがわかるものや、むかしの人が使った道具などがならべられています。

 

 横須賀市自然・人文博物館:
 http://www.museum.yokosuka.kanagawa.jp/

 

 国立科学博物館:
 http://www.kahaku.go.jp/

 

☆ 家の人や近所の人に、いろいろなことをきいてみましょう。また、毎年行われる行事の中にも、むかしの人びとのくらしやねがいを知ることのできるものがあります。

○ あつめたものを、クラスで話しあって、古いじゅんにわけてみましょう。
  そして、絵の年表(ねんぴょう)をつくってみましょう。

 

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 2.学校のうつりかわり 

 つぎに、わたしたちが、毎日勉強している学校をたんけんしてみましょう。

―― 「1年生の時から今までに、なくなったり、ふえたりしたものはないでしょうか。」――

 学校によっては校庭に、太くて大きな木があります。また、友だちと遊ぶ遊具(ゆうぐ)の中にも、むかしから使われてきたものがあるかもしれません。

 

 

 わたしたちの学校が、いつごろできて、どのようにかわってきたのか、調べてみましょう。まず、校しゃの中やまわりをたんけんして、「学校のむかしさがし」をしてみましょう。

校庭の木(逸見(へみ)小学校)  

 

「学校のむかしさがし」でみつけたもの

記ねんひ

古い時計

記ねんし

(衣笠小学校) (汐入小学校)  

 

 わたしたちのグループが、「学校のむかしさがし」で校長室におじゃますると、校長先生が、わたしたちの学校の記ねんしと古いそつぎょうアルバムを見せてくださいました。

 また、友だちのグループは、体育館(かん)で、10年前のそつぎょう生がのこしてくれた、校歌がほられてある板をみつけたようです。いつも、なにげなく見ていた校歌の板が、10年も前のものだったとは、とてもびっくりしてしまいました。

 

○ いろいろな人に話を聞き、アルバムや記ねんしなどで調べてみましょう。そして、絵や文で、あなたの学校の年表をつくってみましょう。

 

 

(1)横須賀にはじめて学校ができたころのようす

校しゃのようす   ふくそうやかみがたのようす
 
 衣笠(きぬがさ)小学校ができる前の「北小学校」のようすです。衣笠小学校は、この北小学校と南小学校とがいっしょになって、1908(明治(めいじ)41)年、今のところに校しゃができました。(このしゃしんは、明治のはじめごろのものです。)    1899(明治32)年の大津(おおつ)小学校のそつぎょうしゃしんです。わたしたちのふくそうやかみがたとくらべて、どうですか。
     
勉強のようす   教科書
 
 1922(大正(たいしょう)11)年の浦郷(うらごう)小学校のしゃしんです。「しゅう身(しん)」という勉強をしています。     わたしたちの使っているものとくらべて、どうですか。 

 


 わしが、明治(めいじ)34年に汐入(しおいり)小学校に入学したころの話じゃ!坂本(さかもと)6丁目から学校まで、50分ぐらいの道のりだったが、こまげたをはいてかよう小学生にとっては、近くに学校ができないかと、いつも思ったもんじゃ!昭和(しょうわ)のはじめごろだったと思うんじゃが、坂本小学校ができたときは、近所の子どもたちは、大よろこびだった。

 

 
 1921(大正(たいしょう)10)年の鴨居(かもい)小学校の「運動会」のしゃしんです。   ドッジ・ボール?いや、バレー・ボールのようです。1925(大正14)年の浦郷小学校のしゃしんです。

 


 わたしは、明治43年に船越(ふなこし)小学校に入学したんですが、1年生のころは、国語の読本(とくほん)や算術(さんじゅつ)の本や、修身(しゅうしん)の本などといっしょに、石盤(せきばん)や石筆(せきひつ)もふろしきにつつんで、学校へ行きました。石盤に字のれんしゅうをすると、先生が赤いチョークでまるをつけてくれました。そのまるがきえないように、いつも気をつけて、家にかえったものです。

 

 このころの子どもたちは、あまり遊ぶひまがなかったようです。いつも学校から家に帰るとすぐに、子もりや、田畑のしごと、りょうのしごとなど、家のしごとを手つだっていたそうです。

 

 

(2)おばあさんが子どものころの学校のようす

おばあさんの話

 
 わたしは、1940(昭和15)年ごろに長浦(ながうら)小学校へかよっていました。校しゃは、木のニかいだてでね。入口の所に“足あらい場”がありました。体そうの時間は、紅白(こうはく)のはちまきをして、マラソンたびという白いたびをはいてやりました。はだしでやった子もめずらしくなかったのよ!組はね、男組みと女組みにわかれていてね。女の子は、いつもなわとびや石けりをして遊びました。教室には、電気もストーブもなくて、冬は、とてもさむくてね。だから、手足がしもやけになる子がたくさんいました。給しょくはなくて、毎日、おべんとうを持って行くのですが、食べものが少ない時だったので、家へかえって食事をしてから、また、学校へくる子もいました。5~6年生のころだったと思うけど、女の子は、“かんげいこ”といって、冬の朝はやく、学校へあつまって、はだしで、“なぎなた”のけいこをしました。わたしが、そつぎょうするころになると、せんそうがはげしくなり、いなかのない子は、“集だんそかい”をしたんですよ!

 

集だんそかい
 1944(昭和19)年から、小学校3年生以上(いじょう)のじどうは、父母からはなれ、先生につれられて、遠くのお寺や神社などで生活をしました。市内からは20校。やく5500人のじどうがそかいしました。
給(きゅう)食
 1943(昭和18)年ごろから、みそしる給食がはじまり、その後、ぞうすい給食になりました。今のようなかん全給食になったのは、1951(昭和26)年からです。

 

 

(3)お母さんが子どものころの学校のようす

お母さんの話

 
 お母さんがかよっていた、1965(昭和40)年ごろはね。おばあさんのころの校しゃとはちがうけど、まだ木の二かいだてだったのよ!トイレは、校しゃからはなれたところにあってね。わたりろうかを歩いて行ったわ。教室には、まだ、けいこうとうがついてなくて、雨の日は、まどがわにつくえをよせて勉強したわ。冬になると、ダルマストーブといって、石たんでもやすストーブがとりつけられ、そのまわりを鉄さくがかこっていたのよ。つくえやいすも、かたそうな木でできていて、つくえは二人用(ふたりよう)の長づくえで、いすは一人(ひとり)用だったわ。
 ふくそうは、お母さんの手づくりのワンピースや手あみのセーターをきている子が多かったわ。ズボンのひざにつぎがあたっている子や、くつ下のゆびの所をついではいている子もたくさんいたわ。体育の時間には、男の子がトレーパンという白い長ズボンをはいて、女の子はブルマというももの所にゴムを入れた、こん色のひだのついたパンツをはいていたのよ。
 あっ、そうだ!お母さんのおねえさんがかよっていたころは、“二部じゅぎょう”といって、同じ教室で、午前中に勉強するクラスと午後から勉強するクラスとがあったそうよ!

 

二部じゅぎょう  市内では、子どもの数がふえたことや、古くなった校しゃのたてかえなどがかさなって、1950(昭和(しょうわ)25)年ごろから1961(昭和36)年ごろにかけて、「二部じゅぎょう」を行った学校がありました。
 左のしゃしんは、鶴久保(つるくぼ)小学校のもので、外から教室をのぞきこんで、勉強のはじまりを待っている子どもたちのようすです。
あなたの家の人にも話を聞いてみましょう。
給食の時間 運動会

 

○ 町や市のうつりかわりは、子どもの数などにもあらわれてきています。

 

○ 下の図は、横須賀市の小・ろう・養護(ようご)学校ができた年を色わけして表したものです。色のちらばり方を見て、どのようなことに気がつきますか。

 

 学校の年表をつくったわたしたちは、むかしの学校のようすをいろいろと知り、前よりもずっと自分の学校がすきになりました。これからは、下級生のためにも、もっと、もっと、よい学校にしなければと思いました。

 

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学校名は現在の名称を使用しています。

 

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 3.市の人びとのくらしのうつりかわり 

 つぎに、わたしたちの市が、いつごろでき、どのようにかわってきたか、交通を中心に、およそ100年間のうつりかわりを調べてみましょう。そして、絵や文や、図などをくふうして、楽しい「横須賀市の年表(ねんぴょう)」をつくってみましょう。

 

 

(1)横須賀丸(よこすかまる)がかつやくしていたころ

そのころの横須賀村のようす
 正面にならぶ家なみは、今のりん海公園のあたりだそうです。

 

 今からおよそ140年前の横須賀は、人や荷物が集まる港町でした。そのころの人びとは、遠くへ行くのには船で行くのがふつうで、となり村などへ行く時は、山の尾根道(おねみち)などを歩いて行きました。
 そんな港町の横須賀村に、船をつくる工場(※1)ができました。工場では、まず、大小2せきのじょうき船がつくられ、はじめてつくった船だったので、大きい方のじょうき船に、後から「横須賀丸」という名前がつけられました。
 横須賀丸は、1868(明治元(めいじがん))年から、横須賀と横浜をむすぶ船として、かつやくしました。

※1.船をつくる工場は、1865(慶応元(けいおうがん))年からつくられはじめ、「横須賀 製鉄所(せいてつじょ)」とよばれました。 そして、1871(明治4)年には、「造船(ぞうせん)所」とよぶようになり、明治の中ごろになると、「海軍工廠(かいぐんこうしょう)」と名前がかわりました。

 

 

 

 船をつくる工場ができあがると、たくさんの人が横須賀村に住むようになりました。そして、このころから、下町(したまち※3))の海岸がうめたてられ、新しいまちがつくられはじめました。横須賀村は1876(明治9)年、横須賀町になりました。ゆうびん(※4)も、このころはじまりました。

 

むかしのようす 今のようす
1870(明治3年)のしゃしんです。 田戸(たど)小学校がみえます。

 

※2.フランス人のヴェルニーは、船をつくる工場だけでなく、1869(明治2)年、観音崎(かんのんざき)に、日本ではじめての西洋式(せいようしき)のとう台をつくりました。
 また、工場にひつような水は、走水(はしりみず)から水道をつくって(どかんのパイプで)、ひきました。

3.下町(したまち)とよばれる所は、小川町(ちょう)、若松(わかまつ)町、米ヶ浜(よねがはま)、日ノ出(ひので)町、安浦(やすうら)町とつづく海岸ぞいの町で、みんなうめたてによってつくられました(P54に図があります)。

4.ゆうびんは、1871(明治4)年からです。

 

 

(2)横須賀線がしかれたころ

 日本は、外国とのつきあいをはじめてから、陸軍(りくぐん)や海軍(かいぐん)の力を強くするために、横須賀にも、いろいろな軍のしせつをつくりはじめました。
 そして、海軍の大切なしせつが横須賀にうつされると、軍の人や物を運ぶために、鉄道(てつどう)がひつようになりました。こうして、1889(明治(めいじ)22)年に横須賀線がしかれ、横浜や東京都の交通が、とてもべんりになりました。
 はじめのころは、たん線で、じょう気きかん車が客車をひっぱって、1日6おうふくしていました。
横須賀鎮守符 (※1)

 この話は、わしの父から聞いた話じゃが・・・。国鉄(こくてつ)横須賀線がしかれたころの横須賀駅(えき)は終点(しゅうてん)で、駅の右がわにきかん車の向きをかえる所があって、入ってきたきかん車の向きを、二人がかりでかえていたそうじゃ!その後は、電気でかえたそうだが・・・。
 また、そのころ走っていた5500型(がた)というじょう気きかん車の話を「かっこよかった!」といつも聞かされたもんじゃ。

 

 このように、交通がべんりになると、船をつくる工場や軍のしせつなどにかんけいのある人たちが、日本中からたくさん集まって来て、人口は、毎年ふえていきました。
 そして、1907(明治40)年2月15日、横須賀町と豊島(としま)町(※2)がいっしょになって、横須賀市が生まれました。
 このころ、横須賀から浦賀(うらが)へ、また、横須賀から長井(ながい)の間に、乗合馬車(のりあいばしゃ)(※3)も走るようになりました。

 

1921(大正10)年ごろの
国鉄横須賀駅前のようす

 


 大正時代(たいしょうじだい)の国鉄横須賀駅前には、たくさんの人力車(じんりきしゃ)がお客さんを待っていました。でも、ふつうは、あまり乗らず、おいしゃさんや軍人(ぐんじん)さんたちが乗っていたようにおぼえています。また、何けんかの茶店(ちゃみせ)があって、汽車に乗る人たちは、そこでよく出発時こくまで待っていました。発車前になると駅員(えきいん)さんが出てきて、「カラーン!カラーン!」と合図(あいず)のかねをふって、ならしていました。
 ※国鉄(こくてつ)とは、今のJR(ジェイアール)のことです。

※1.「鎮守府(ちんじゅふ)」は、海軍のしせつや軍人をとりしまる所です。はじめは、横浜にありましたが、1884(明治17)年に横須賀にうつされると、船をつくる工場では、軍かんをつくることに力を入れたり、たくさんの軍のしせつがつくられ、やがて横須賀は、“軍港の町”といわれるようになりました。

※2.豊島町・・・公郷(くごう)村、深田(ふかだ)村、中里(なかざと)村、不入斗(いりやまず)村、佐野(さの)村のこと

※3.1899(明治32)年に開通(かいつう)したといわれ、大正(たいしょう)、昭和(しょうわ)のはじめごろにかけて、バスのようなやくめをしていました。

 

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(3)大きな地しんがあったころ

 明治(めいじ)のおわりごろから大正時代(たいしょうじだい)にかけて、わたしたちの市に、電気(※1)や水道(※2)、電話(※3)などがひかれ、されに生活がべんりになりました。乗合(のりあい)自動車(※4)も走り、町もどんどんひらけていきました。
 ところが、1923(大正12)年9月1日、とつぜん、「関東(かんとう)大しんさい」とよばれる大地しんがおきました。
 わたしたちの市でも、家がたおれたり、火事になったりして、大ぜいの死者(ししゃ)(※5)が出てしまい、町の大部分がめちゃめちゃになってしまいました。
 しかし、町の人たちの力で、新しい町づくりがすすめられました。
関東(かんとう) 大しんさいのようす

 


 午前11時58分、ゴーッという地なりとともに、はげしい上下のゆれがおきました。人びとは、歩くこともできず、家の中や道ばたで、おそろしさにおびえました。よしんもたびたびおこり、家はかたむいたり、つぶれたり、すさまじいすなぼこりの中をにげまどいました。道もいたる所で地われがおき、また、ガケくずれもおきました。そのうち、いろいろな所から火が出はじめました。

 

 

※1.1907(明治40)年、市内に電気がしかれはじめました。

※2.1908(明治41)年、市えいの走水(はしりみず)水道ができました。

※3.1905(明治38)年、横須賀郵便局(ゆうびんきょく)で電話交かんがはじまりました。

※4.大正から昭和(しょうわ)のはじめごろにかけて走りました。手をあげると、どこでも止まってくれて、10人ぐらい乗るといっぱいになってしまう、小さなバスのような自動車でした。

※5. 市内では、死者およそ700人、けがをした人およそ1,200人でした。

 

 

(4)湘南電車(しょうなんでんしゃ)がしかれたころ

 1930(昭和(しょうわ)5)年、浦賀(うらが)から横浜(よこはま)の黄金町(こがねちょう)まで、湘南電車(※1)が走るようになりました。横須賀市はこのころ、衣笠(きぬかさ)村や田浦(たうら)町など、まわりの町や村といっしょになって、どんどん大きくなって行きました。 平坂通(ひらさかどお)りの
湘南電車のガード
(遠くに乗合自動車が見えます)
 しかし、市の人びとのくらしはだんだん悪くなり、工場ではたらいている人のきゅうりょうが安くなったり、仕事がなくなったりしました(※2)。また、軍(ぐん)の力が強くなり、軍のしせつが見える高いところにのぼることもできなくなりました。

 

逸見上陸門(へみじょうりくもん)   重砲兵連隊
(じゅうほうへいれんたい)の門
 
 軍かんの出入りする港がつくられ、たくさんの軍の人が、この門を通って、町へ出ました。    陸軍(りくぐん)の兵隊(へいたい)が、住んでいましたが、戦後(せんご)は学校のたて物として使われ、その後、鉄きんの校しゃにたてかえられました。

 

※1.今の京浜急行(けいひんきゅうこう)です。湘南電車(湘南電鉄(でんてつ))は、1942(昭和17)年に東京(とうきょう)急行電鉄となり、1948(昭和23)年、京浜急行電鉄になりました。

※2.1929(昭和4)年ごろから、世界中が不景気(ふけいき)になりました。

 

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(5)大きな戦争(せんそう)があったころ

 やがて日本は、アメリカをはじめとるす世界の多くの国をあい手に、戦争を始めました。そのころ、町の大きなたて物や、道路のまわりの家などはほかの所へうつされ、市の人びとは、山のがけなどに防空(ぼうくう)ごうをほりました。

 

光心寺(こうしんじ)
(衣笠栄町1丁目)

  広げようとした道(京急逸見駅前)
 
 今のベースの中にあったお寺です。軍(ぐん)のしせつをつくるためにたちのかされました。この時、神社や家など、400けんぐらいもいっしょにたちのきました。    ばくげきをさけたり、軍にひつような物をたくさん運ぶために、道を広げようとしましたが、戦争にまけて中止(ちゅうし)になり、そのままとりのこされてしまいました。
     
防空ごう   防空えんしゅう
 
 ばくだんやしょういだんをさけるために、横あなをほったり、道路やにわなどにあなをほり下げて、土を上にかぶせて、その中に身をかくしました。    ひこうきからおとされたしょういだんで、家が火事にならないようにと、バケツリレーで水を消すくんれんをしました。

集だんそかいの話

 朝、7時までにふとんをかたづけて、ひとつの井戸(いど)でじゅんばんに顔をあらいます。
 つぎに、へやとにわのそうじをして、8時に朝ごはんでした。そして、みんなでいっしょに勉強をします。昼ごはんを食べてから遊び、夕ごはんをすますと自由(じゆう)時間でした。
 でも、冬の夜は、すきま風が入って、とてもさむかったです。だんぼうのないへやに、みんなでかたまってねました。
 「家にかえりたい!」といって、なき出す子やおねしょをする子もいました。
 ノミやシラミがふえて、とてもこまりました。せんたくをしたくても、今のような石けんはなく、いちばんこまったことは、食べ物がなくなっていくことでした。

 

 

(6)長い戦争が終わって

 戦争がはげしくなった1944(昭和(しょうわ)19)年、久里浜(くりはま)の海軍(かいぐん)しせつへ、国鉄(こくてつ)横須賀線(せん)がのばされ、また、この2年前の1942(昭和17)年に、京浜急行久里浜線(けいひんきゅうこうくりはません)がしかれました。
鉄道こぼれ話
名前をかえた駅(えき)
 今の京浜急行線の「新大津(しんおおつ)駅」は、そのころ「鳴神(なるかみ)駅」、「北久里浜駅」は、「昭南(しょうなん)駅」とよばれていました。これは、そのころ、日本軍がせんりょうしたキスカ島(鳴神)と、今のシンガポール(昭南)からつけた名前です。
 その後、1948(昭和23)年に、鳴神駅は今のように、昭南駅は「湘南井田(しょうなんいだ)駅」と名前をかえました。《昭南井田が今のようになったのは、1963(昭和38)年です。》
今はない相模金谷駅(さがみかなやえき)
 1945(昭和20)年4月から8月まで、今のJR(ジェイアール)横須賀駅と衣笠(きぬがさ)駅の間(今の三浦高校(みうらこうこう)わきのガード近く)に、とくべつにつくられた駅でした。
 そのころ、海軍工廠(こうしょう)にはたらいていた人のためにつくられ、戦争がおわると、とりこわされてしまいました。

 

陸軍重砲連隊のしせつだった、
そのころの坂本中学校

 そして、1945(昭和20)年8月15日、長い戦争がおわると、軍の人や軍のしせつではたらいていた人たちや、その家ぞくが、つぎつぎと横須賀をひきあげていきました。
 軍のしせつはアメリカ軍が使い、軍のたて物は、学校や、外地(がいち)からひきあげてきた人たちの住たくに使われました。このころは、多くの人が、食べる物や着る物に不自由(ふじゆう)し、たいへん苦しい生活をしていました。

 

このころの乗り物

原動機(げんどうき)つきの
輪タク(昭和20年代)

三輪(さんりん)トラック
(昭和30年代)

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日本がせんりょうしていた外国の土地。

 

 

(7)平和産業都市(へいわさんぎょうとし)へ

 アメリカ軍(ぐん)にせんりょうされていた軍のしせつは、横須賀市にとって大切な場所でした。しかし、そのしせつも、少しずつ日本へ返されて、造船(ぞうせん)会社やくつ下工場、かんづめ工場や研究所などになり、「軍の町」から「平和産業都市」へと生まれかわるもとになりました。

 

研究所が集まった武山
海軍のしせつが、たくさんあった所でしたが、
今は、大学や会社の研究所になっています。

 

 また、横須賀市は港をととのえ、さらに平和産業をのばすどりょくをしてきました。そして、新しい工場や会社がつぎつぎとふえ、そこではたらく人びとが、うつり住むようになり、そのうえ、首都(しゅと)東京から1時間あまりの所にあるので、人口は、ますますふえてきています。

 

 

 

 

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1948(昭和(しょうわ)23)年、横須賀港(こう)が「軍港」から「貿易(ぼうえき)港」になりました。
 

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(8)これからの横須賀市

 これからさき、いつまでも、わたしたちが安心して生活をつづけられるために、あなたは、横須賀市がどんな都市(とし)になっていったらよいと思いますか。
つぎの3つのことについて、みんなで話しあってみましょう。


 1.今のままのこしておきたいもの
 2.今あるもので、もっとよくしたいもの(なおしたいもの)
 3.新しくつくるとよいもの


 そして、これまでの学習をもとに、「これからの横須賀市」という作文や絵をかいてみましょう。


 それでは、横須賀市では、どんな都市(とし)にしようと考えているのでしょうか。市役所では、「国際(こくさい)海の手文化(ぶんか)都市」をめざして、つぎのようなまちづくりの目標(もくひょう)を立てています。 

 

 1.いきいきとした交流(こうりゅう)が広がるまち
 2.海と緑(みどり)を生かした活気(かっき)あふれるまち
 3.個性豊(こせいゆた)かな人と文化が育つまち
 4.健康(けんこう)でやさしい心のふれあうまち
 5.安全(あんぜん)で快適(かいてき)に暮(く)らせるまち

 

湘南国際村計画 横須賀リサーチパーク計画
● 三島半島中央道路 ● 長井海の手公園
三島半島縦貫道路 ● 海上都市計画
東京湾口道路 よこすかポートフロンティア計画
ウェルシティ整備事業  

 

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湘南国際村計画

(しょうなんこくさいむらけいかく)

 横須賀市と葉山町にまたがる地区に、国際交流(こうりゅう)を目的とする施設(しせつ)づくりが進められています。1994(平成6)年に村の一部がオープンし、全体の完成(かんせい)は2000(平成12)年ごろの予定(よてい)です。

 

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横須賀リサーチパーク計画

 長沢・野比地区の丘陵地(きゅうりょうち)に、情報通信(じょうほうつうしん)の研究開発(けんきゅうかいはつ)施設がつくられました。1997(平成9)年度に、その一部が完成し、使われはじめています。

 

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三浦半島中央道路

 県道横須賀逗子線(ずしせん)から湘南国際村を通り、県道横須賀三崎(みさき)線につながる道路で、湘南国際村の完成にあわせて、前線が開通(かいつう)する予定です。

 

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長井海の手公園

 長井住宅地区跡地(あとち)を市民の交流やいこいの場所として使うために、木々(きぎ)や多目的(たもくてき)グランド、体験農園(たいけんのうえん)などをそなえた総合(そうごう)公園がつくられます。

 

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三浦半島縦貫(じゅうかん)道路

 横須賀市衣笠町から三浦市初声(はっせ)町をむすぶ道路で、県道横須賀三崎線のバイパスとして、横浜・横須賀道路につながる予定です。

 

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金田湾(かねだわん)(野比沖(のびおき))

海上都市計画

 

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東京湾口(とうきょうわんこう)道路

 横須賀市から千葉(ちば)県富津(ふっつ)市にかけて、浦賀水道(うらがすいどう)を横断(おうだん)する道路で、現在(げんざい)、基礎的(きそてき)な調査(ちょうさ)が行われています。

 

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よこすかポートフロンティア計画

 新港(しんこう)町から走水の沖合(おきあい)をうめたて、客船(きゃくせん)や貨物(かもつ)船がとまる港(みなと)や、魚や海のことを研究する施設などがある、新しいまちをつくる計画があります。完成は、21世紀(せいき)はじめの予定です。

 

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ウエルシティ整備事業(せいびじぎょう)

 JR横須賀駅の西側(にしがわ)に健康増進(ぞうしん)センターや市民(しみん)のための学習施設、お年寄(よ)りのための住宅(じゅうたく)などをつくっています。

 

 

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 4.おまつりや行事を調べよう 

 

 むかしからつたわる“おまつりや行事”の中に、むかしの人びとのくらしやねがいを知ることのできるものがあります。


 あなたの住んでいるまちには、どんな“おまつりや行事”がありますか。つぎのことをさんこうに、いろいろな人に話を聞いて、調べてみましょう。そして、これらのものを、わたしたちもうけつぎ、大切にしていきましょう。


 横須賀市観光イベントカレンダー:
 http://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/event/index.html


 
市内のおもな”おまつりや行事”

 

みなと祭り あめやおどり
おんべやき とらおどり
● とっぴきぴー  

 


 

みなと祭り

 1947(昭和22)年に第1回が行われ、そのころは、「黒船まつり」とよばれました。毎年、50ぐらいの音楽隊(たい)やかそう行列(ぎょうれつ)などのさんかがあり、横須賀を代表する市民(しみん)イベントとして、にぎやかに行われています。

 

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あめやおどり

 

 江戸時代(えどじだい)のおわりごろ、安房上総(あわかずさ)(千葉県(ちばけん))から伝えられたといわれています。前は、いろいろないわいごとがあると行われていましたが、今は、長井(ながい)の熊野(くまの)神社のおまつりのときにほうのうされてい ます。
 むかしの人びとの「楽しみのひとつ」だったようです。

 

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おんべやき

 

 「おんべやき」のほかに、「どんとやき」、「サイト」、「セート」などとよばれ、かどまつやしめかざりなどを集めてもやし、1年間のぶじをいのります。

 

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とらおどり

 

 1720(享保(きょうほ)5)年、下田(しもだ)(静岡県(しずおかけん))にあった奉行所(ぶぎょうしょ)が、浦賀にうつされたとき、いっしょにつたえられたのではないかといわれています。とらの力で、当時、おそれられていた伝染病(でんせんびょう)(ほうそう)をおいはらっていまおうと考え、行われるようになったのではないかといわれています。
 前は、西浦賀の西叶(にしかのう)神社にほうのうされていましたが、「市民祭(しみんさい)」などのときだけ、行われています。

 

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とっぴきぴー

 1947(昭和22)年に第1回が行われ、そのころは、「黒船まつり」とよばれました。毎年、50ぐらいの音楽隊(たい)やかそう行列(ぎょうれつ)などのさんかがあり、横須賀を代表する市民(しみん)イベントとして、にぎやかに行われています。
 里かぐらの一種(いっしゅ)で、江戸時代(えどじだい)の文化・文政(せい)[1804(文化元)~1829(文政12)年]のころから伝えられたといわれています。「海でじこがないように」とか、「魚がたくさんとれるように」などをいのって、おこなわれます。鴨居(かもい)の八幡(はちまん)神社にほうのうされます。

 

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調べること

 1.どんなおまつり(行事)か。
 2.いつごろおこなわれるか。
 3.どこで行われるか。
 4.どんなことをするのか。
 5.どんなねがいがあるのか・・・など。

 

 

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公開日:2023年10月16日 08:00:00
更新日:2023年11月01日 10:23:59